第二章・ヤオ村

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◆  夕食時の料理屋は多くの客で賑わっていた。空腹の二人はさっさと席を確保し、注文を速攻で済ませる。支払いはリュウキがしてくれた。 「うまい! ここの(あつもの)は最高だね」  器の中で湯気を立てる羹を飲み、リュウキは顔を綻ばせる。  野菜の旨味を含んだ汁が舌の上を幸せで満たしてくれた。  あまりの美味しさに、ヤエは熱さも忘れて頬を緩める。 「ヤエ」 「はい」 「食事をすると、そんなに幸せそうな顔をするんだね」 「……え」  この人はいちいち要らぬ感想を述べてくる。無性に小恥ずかしくなり、ヤエはすぐさま無に戻った。 「照れるところも可愛いよねえ」  逐一反応する気にもなれない。ヤエはわざと話題を逸らした。 「……あの、リュウキ様。旅をしてからどれほど経つのですか?」 「まだほんの数日だよ」 「そうなのですか」 「目覚めた海岸の周囲には村もなかったし、人っ子一人見当たらなかった。ただ、妙なことに大量の矢が至るところに焼け焦げた状態で散らばっていたんだよね」 「焼けた矢、ですか……」  ヤエはじっとリュウキを見つめる。 「まあ、きっと僕が炎の力を使ったんだと思うよ。もしかしたらあの海岸で戦があったのかも。でもどうすることもできないし、目の前にあったあの山をとりあえず登ってみることにしたんだよ」 「そうだったのですね。見知らぬ山に入るのは怖くなかったのですか?」 「いや……むしろ逆かな。戦が起きたかもしれないあの場所に留まるのは嫌だった。それにこれが現実なのか、それとも奇妙な世界に迷い込んでしまったのか。とにかく移動して、なんでもいいから知りたかったんだよ」  一度茶を含んでからリュウキは、たちまち真顔になる。 「山を登ってから、色んな化け物に襲われたよ。一番怖かったのは、熊だね。体長は人間の二倍以上はあった。それなのに素早くて、危うく僕もやられそうになったよ。あまりの迫力に、恐怖で動けなくなった。すると──あの熊、突然僕に泥をかけてきたんだよ!」 「……泥、ですか?」 「そうだよ。僕の顔を汚しやがって。本当に許せなかった。だけどその時にね……なぜか勝手に炎の力が溢れてきたんだ」  リュウキの目は、そこで急に鋭くなった。 「目の前が真っ赤になって、全身から溢れる炎の力がどんどん肥大化していってね。正直、通常の状態では出せないほど強力だった。巨大な炎を放出すると、あっさり熊を倒せたんだけどさ」  僕って強いよね、と鼻高々に話すリュウキだが、目は一切笑っていない。 「どうやら僕は、激怒するととんでもない力が溢れてしまうらしい。自分じゃどうにもならないから、化け物退治だったり、戦うとき以外は穏やかにしていないと色々ヤバそうだ」 「そ、そうですか……」  絶対にこの男の身体をむやみに傷つけてはいけない。ヤエは密かにそう思った。  それからリュウキは再び穏やかな表情に戻る。 「化け物を蹴散らしながら山を登って三日目のことだ。君に会ったのは」 「……凍っていた私を救ってくださったのは、彷徨う炎使いだったわけですね」 「ははは。そうだね。白虎君という僕の髪を切り刻んだ立派な化け物もいたし、あのナナシというよく分からない男にも会った。だから今僕が見ている世界はどうやら現実のようだ。ここのヤオ村だって、西国の中心地にあることが分かった。幸先がいい」  ヤエは小さく咳払いをしてから、箸で漬物を摘まむ。それを小皿に載せてから、さっとリュウキに差し出した。  それを受け取ったリュウキは嬉しそうな顔をする。 「ヤエは何を覚えている?」 「えっ」 「氷になる直前の記憶はあるの? あの白虎君と婚約者のこと以外に、覚えていることはないのかな」  リュウキの問いに、ヤエは頭の中の記憶を辿った。  自分の分の漬物を小皿に載せる。それを口に入れ、よく味わってからゆっくりと首を横に振った。 「……正直、ほぼ何も覚えていません」 「うーん。そうか。氷になっていた理由がすごく気になるんだけど、思い出せそうにないね」 「はい、残念ですが」  舌が寂しくなり、ヤエは一気に羹を平らげた。汁がまだまだ熱くて涙目になる。それでも旨味が喉まで染みるようだ。 「ヤエは何歳?」 「えっ、私ですか?」 「うん。僕は今年で二十歳になるよ」 「ああ……そうなんですね。あなたの方が三つ上ですね」  するとリュウキは少年のように嬉しそうな笑みを浮かべるのだ。 「好きな食べ物は?」 「え……好きな? まあ、この羹も好きですが」 「うんうん、美味しいよねえ。ここの店のものも。饅頭(マントウ)とかどう?」 「饅頭ならお野菜が入っているものもよく食べますよ」 「そうか。僕も同じだよ!」  そこまで話すと、リュウキは目を細めて満悦そうだ。 「リュウキ様……何がそんなに嬉しいのです?」 「いや、ちゃんと覚えているなって」 「え?」 「僕たちは、過去を思い出せないけれど『自分自身』のことはちゃんと分かっている。だからなんだか嬉しくなってね」  その一言に、ヤエは小さく頷いた。たしかに、リュウキの言うとおりである。  自分を見失うほど彷徨ってはいない。その事実に、ヤエは少なからず安堵した。 「ヤエがホッとしてる。その表情も綺麗だよ」 「……はい?」  出会って半日。またもやからかっているのだろうか、恥ずかしげもなくそのような台詞を口にするリュウキにヤエは呆れた。  深く深くため息を吐く。 「リュウキ様は何故そんな風に言うのです?」 「え? 僕の本心だからだよ」 「ご自身の容姿にも随分と自信があるようですしね」 「うん。僕ってイケてるからね。いつでも格好良くいられる為に努力はしているよ」 「はあ……容姿端麗であることにそこまでこだわる必要がありますか?」  美意識の高いリュウキのことだ。どうせまたへらへらしながら返答をするに決まっている、ヤエはそう思い込んでいた。  しかしそんな予想とは裏腹に、突然リュウキは神妙な面持ちに変わっていくのだ。  箸を置き、リュウキは静かに口を開く。   「……不要だと言われるんだ」  あまりにも神妙な面持ちだった。リュウキのそんな表情を見て、ヤエは息を飲む。   「僕は──親がどんな顔をしていたのか全く思い出せない。だけど、母がいたのを覚えている。母はとても厳格な人だったと思う」  彼の表情は暗く、そぐわないものだった。 「『男は健康的で強くなければならない。女は知性的で気が遣える相手を選びなさい。そして常に容姿も心も美しくいろ。それができないのなら一族には不要だ』。これは、母に言われた言葉だよ」 「……色々と熱心なお母様、だったのですね?」 「それだけならいいんだけどね。母親の顔も名前も覚えていないのに、母に言われ続けたその内容だけ深く頭の中に残っている。忘れたいのに忘れられないんだ」  小さく呟いたあと、リュウキの視線がヤエに向けられた。再び口元が緩んでいくのだ。 「ヤエと別の所で、もう少し早く出会っていればよかったなって思うよ。君の恋人が羨ましい」 「……はい? 急に何を仰いますか」 「綺麗だし気遣いができる。僕の理想の人だ」  リュウキは、漬物が載る小皿を手に取るのだった。  今一つこの人の言うことが分からない。ヤエは大袈裟に首を横に振った。 「もういいです、あなたにも複雑な事情があるのは伝わりましたから……」  ふざけているのかと思っても、リュウキは急に寂しそうな表情を浮かべる。ヤエには彼が抱いている心の闇が見えて気がしてならないのだ。  ぼんやりそう思いながら、ヤエは残りの漬物を味わった。
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