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両腕を組み、優しい表情を浮かべ、柔らかい口調でナナシは口を開くのだ。
「ヤエ。この景色を見た覚えはあるか」
「……え?」
その問いに、ヤエはすぐに返事をすることができない。
心地のよい風が池の水面に波を描き、桃の木は静かに揺れながら花の音を奏でた。太陽が地を照らし、反射したあたたかい光がヤエたちを包み込む。ここは本当に癒される場所だ。
しかし──記憶を辿っても、ここがどこなのか答えは見つからない。
ヤエは小さく首を横に振った。
「私には……分かりません」
暗い声で答えるヤエに、ナナシは頷いた。
「……仕方がないさ。氷の悲しみから解放されてまだ間もない。自分の過去は、ゆっくりと思い出すしかないんだ」
当然のように放たれた言葉に、ヤエは違和感を覚える。
今目の前にいるナナシは、実物なのか、それとも単なる夢なのか。
「ナナシ様」
「なんだ」
「あなたは、夢の中の存在ですか?」
するとナナシは、ゆっくりとヤエの前に手の平を差し出してくる。
「触ってみろ」
「え……? あ、はい」
言われるがまま、ヤエはその逞しい指先に手を重ねる。分厚い皮膚の感触が、たしかにヤエの中に伝わってきた。
整えられた長い爪に、どういうわけかヤエは見入ってしまう。
「単なる夢じゃないんだ」
盆景の香りが風に乗ってヤエとナナシの周りを静かに通りすぎる。
「今ヤエが見ているもの、感じているもの、全てのものは『幻想』に過ぎない。だが、ヤエにとっては『現実』でもある」
「私にとっての、現実?」
「ここはヤエの過去を呼び起こしているだけの幻想の世界。だから今の現実ではないということだ」
「……」
ヤエは口を閉じ、どうにかナナシの言う話を頭で整理しようとした。
(ここは私の記憶の中の世界ということ……? 私自身は覚えていないけど、この場所は一度来たことがあるのね?)
もう一度両腕を組むと、ナナシは表情をそこで無に変えていく。
「だが幻想世界の中には、記憶とは全く関係ないものが現れることがある。事実と異なるものまでも信じると、何が現実なのか区別がつかなくなるからな。そこは絶対に気を付けろ」
「……関係のない幻想を見てしまったらどうすればいいのでしょうか」
「誠のものを、見極めるしかない。たしかにヤエは今、感じたはずだろう? 懐かしさや心地よさを。俺の手の感触を。少しでも記憶の奥底で呼び起こされる何かの感覚があった時は、決して忘れないように。そうすれば、必ず過去のことも思い出せるはずだから」
そう語るナナシの声は落ち着いている。優しさも溢れている気がしてならない。やはり、昼間に会ったナナシの雰囲気とはまるで違う。
そんな彼のことをじっと眺めながらヤエはまた疑問をぶつける。
「あなたは……私の知っている人、ですね」
するとナナシはたちまち目を逸らす。首を横に振り、静かに答えるのだ。
「教えられない」
「なぜですか」
「ヤエが精神崩壊を起こしたら終わりだ」
静かに言うと、ナナシはヤエに背を向けて歩き出した。
──立ち去るつもりか。
そう察したヤエは、慌てて後を追おうとする。しかし、なぜだか身体が動いてくれない。
「待って、ナナシ様」
声を掛けても、彼は足を止めることはない。
頭上に照らされていた白い光が、急に輝きを強くしていく。
「また会えますか? 現実でも幻想でもどちらの世界でも構いません。もう一度お話がしたいです」
するとナナシは再びヤエの方を振り返る。しかし、たった今までの柔らかい表情はなく、先程会った時の冷たい彼に戻っていた。
「誰と道を歩むべきなのか、行く先はどこなのか。ヤエ自身が決めるんだ。忘れるなよ」
その言葉を最後に、ナナシは光に包まれて姿を消してしまった。
たった今立っていたはずののどかな風景すらも、ヤエの前から全て消えてなくなった。
──パッと目を開くと、ヤエは宿の寝床で横になっていた。部屋を照らす蝋燭の火が消えている。月明りが、窓の外から僅かに差し込んでいるだけで薄暗い。
(……夢じゃない)
たしかに幻想の世界にいたようだ。
ナナシが話した内容の意味が、あまり理解できずに終わってしまった。
考えているうちに、瞼が重くなっていく。思考も停止し、ヤエはその夜、気づかずうちに寝息を立て、なんの変哲もない夢の中へ沈んでいくのだった。
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