第二章・ヤオ村

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 両腕を組み、優しい表情を浮かべ、柔らかい口調でナナシは口を開くのだ。 「ヤエ。この景色を見た覚えはあるか」 「……え?」  その問いに、ヤエはすぐに返事をすることができない。  心地のよい風が池の水面に波を描き、桃の木は静かに揺れながら花の音を奏でた。太陽が地を照らし、反射したあたたかい光がヤエたちを包み込む。ここは本当に癒される場所だ。  しかし──記憶を辿っても、ここがどこなのか答えは見つからない。  ヤエは小さく首を横に振った。 「私には……分かりません」  暗い声で答えるヤエに、ナナシは頷いた。 「……仕方がないさ。氷の悲しみから解放されてまだ間もない。自分の過去は、ゆっくりと思い出すしかないんだ」  当然のように放たれた言葉に、ヤエは違和感を覚える。  今目の前にいるナナシは、実物なのか、それとも単なる夢なのか。 「ナナシ様」 「なんだ」 「あなたは、夢の中の存在ですか?」  するとナナシは、ゆっくりとヤエの前に手の平を差し出してくる。 「触ってみろ」 「え……? あ、はい」  言われるがまま、ヤエはその逞しい指先に手を重ねる。分厚い皮膚の感触が、たしかにヤエの中に伝わってきた。  整えられた長い爪に、どういうわけかヤエは見入ってしまう。 「単なる夢じゃないんだ」  盆景の香りが風に乗ってヤエとナナシの周りを静かに通りすぎる。 「今ヤエが見ているもの、感じているもの、全てのものは『幻想』に過ぎない。だが、ヤエにとっては『現実』でもある」 「私にとっての、現実?」 「ここはヤエの過去を呼び起こしているだけの幻想の世界。だから今の現実ではないということだ」 「……」  ヤエは口を閉じ、どうにかナナシの言う話を頭で整理しようとした。 (ここは私の記憶の中の世界ということ……? 私自身は覚えていないけど、この場所は一度来たことがあるのね?)  もう一度両腕を組むと、ナナシは表情をそこで無に変えていく。 「だが幻想世界の中には、記憶とは全く関係ないものが現れることがある。事実と異なるものまでも信じると、何が現実なのか区別がつかなくなるからな。そこは絶対に気を付けろ」 「……関係のない幻想を見てしまったらどうすればいいのでしょうか」 「誠のものを、見極めるしかない。たしかにヤエは今、感じたはずだろう? 懐かしさや心地よさを。俺の手の感触を。少しでも記憶の奥底で呼び起こされる何かの感覚があった時は、決して忘れないように。そうすれば、必ず過去のことも思い出せるはずだから」  そう語るナナシの声は落ち着いている。優しさも溢れている気がしてならない。やはり、昼間に会ったナナシの雰囲気とはまるで違う。  そんな彼のことをじっと眺めながらヤエはまた疑問をぶつける。 「あなたは……私の知っている人、ですね」  するとナナシはたちまち目を逸らす。首を横に振り、静かに答えるのだ。 「教えられない」 「なぜですか」 「ヤエが精神崩壊を起こしたら終わりだ」  静かに言うと、ナナシはヤエに背を向けて歩き出した。  ──立ち去るつもりか。  そう察したヤエは、慌てて後を追おうとする。しかし、なぜだか身体が動いてくれない。 「待って、ナナシ様」  声を掛けても、彼は足を止めることはない。  頭上に照らされていた白い光が、急に輝きを強くしていく。 「また会えますか? 現実でも幻想でもどちらの世界でも構いません。もう一度お話がしたいです」  するとナナシは再びヤエの方を振り返る。しかし、たった今までの柔らかい表情はなく、先程会った時の冷たい彼に戻っていた。 「誰と道を歩むべきなのか、行く先はどこなのか。ヤエ自身が決めるんだ。忘れるなよ」  その言葉を最後に、ナナシは光に包まれて姿を消してしまった。  たった今立っていたはずののどかな風景すらも、ヤエの前から全て消えてなくなった。  ──パッと目を開くと、ヤエは宿の寝床で横になっていた。部屋を照らす蝋燭の火が消えている。月明りが、窓の外から僅かに差し込んでいるだけで薄暗い。 (……夢じゃない)   たしかに幻想の世界にいたようだ。  ナナシが話した内容の意味が、あまり理解できずに終わってしまった。  考えているうちに、瞼が重くなっていく。思考も停止し、ヤエはその夜、気づかずうちに寝息を立て、なんの変哲もない夢の中へ沈んでいくのだった。
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