第一章・失われたもの

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 風が吹く。あたたかい空気と共に、山道の上の方から梅の香りが通りすぎていった。   「リュウキ様」 「……えっ?」 「と、お呼びすればよろしいでしょうか」 「どうして僕の名をっ?」  目を見開くリュウキに対し、ヤエは淡々と続ける。 「意識の向こう側であなたの声が聞こえてきました。お喋りが多い方のようで」  ヤエは終始口調が冷たいままだ。まるで未だ氷に支配されているかのように。  それでもリュウキは彼女の言葉を聞いて、視界がパッと明るくなる。 「氷の中でも意識があったのか? 凄い、ますます謎が深まるよ」 「でも──記憶が殆どありません。なぜ私がこんなことになっていたのか」 「記憶がない……? そうなのか。じゃあそこの白虎君。君ならきっと何か知っているよね? 教えてくれないかな」  炎の渦をいとも簡単に操りながら、リュウキは白虎の背中を火の手でそっと撫でる。だが白虎はもはや無反応。 「無駄ですよ、その子は人の言葉が理解できても話せません」 「まあ、動物や化け物が人間の言葉なんて喋れるわけないからね。いや、それにしてもこの白虎君は人の言葉を理解しているのか」 「私が生まれる前から人と一緒に暮らしていますから」 「ええ、そうなの? 面白い。白虎君とのことは覚えているんだね?」 「──そうですね。長年一緒に過ごしてきたからでしょうか。家族みたいなものです」  リュウキは思わず怪訝な顔をした。  化け物は人に恐れられている存在だ。通常の動物と比べて力の差は倍以上になるし、身体もとんでもないほど大きく成長する。そして何より── 「君はこの白虎に食われたらどうしよう、という不安はないのか?」  化け物は肉食である。たとえ虎でなくとも野兎だろうが熊猫だろうが、草食動物でさえも化け物になれば肉を食らう。何よりの好物は人間の肉と言われている。  赤黒い化け物の目は闇に支配されているようだ。白虎を眺めながら、リュウキはこの日初めて表情をなくした。 「この子は……ハクは、他の化け物とは違います。人間を食べたことは一度もありません」  白虎を愛おしそうに見つめるヤエの瞳は、優しさで溢れている。彼女のその様子を目の当たりにした時、リュウキは鳥肌が立った。  彼女は化け物に心を奪われている。  直感でそう思ってしまったから。 「……やめた方がいいよ」  低く暗い声になってしまった。リュウキは真剣な表情を彼女に向ける。 「ここへ来るまでに、数えきれないほどの化け物に襲われたよ。奴らが僕を見るあの血のような目は、理性なんてものはどこにもない。ただ【食い物】を見て本能だけで襲ってきた。もし僕に炎の力がなければ、今頃化け物の腹の中だったかもしれないね」  野生動物とは違う、化け物の狂った目がリュウキには恐怖だった。焦点が合わずに力ずくで襲ってくる巨体の化け物に食らいつかれては、どんな人間もひとたまりもないだろう。  リュウキの両手が僅かに震えた。力もあからさまに弱っていったが、拘束されているヤエはそこで逃れたりしなかった。 「もし白虎が人を襲って食べたりしたら、君はどうするつもり?」 「えっ、私ですか……?」  ヤエは束の間遠くを見やるが、すぐに首を小さく振った。 「全力で止めますよ。ハクがそんなことをするわけもありませんが。もし最悪の事態になった時は、それなりの処置をします」 「それなりの処置って?」 「……処分します。私も首を斬って罪を償います」 「へぇ。君って度胸があるね」 「それほど、この子を信じていますから」  そんな話を聞いてから、リュウキはふと笑みをこぼす。彼女を捕らえていた両腕の力を緩め、身体を解放した。 「……放していいのですか?」 「うん、ちゃんと面と向かって話がしたくなった」  そう言うとリュウキはヤエの両肩をそっと掴み、対面する形で彼女を振り向かせた。  ──リュウキの吐息が彼女の髪にそっと触れるほどの距離。  初めて、この至近距離で彼女の綺麗な瞳を見た。リュウキは、なんとも言えない感覚になる。あたたかいような、柔らかいような、一言では言い表せない感情がリュウキの心をつついてくるのだ。  吸い込まれてしまいそうになる。  彼女から目を離せないでいるリュウキのことを、ヤエは戸惑った眼差しで見つめ返してきた。 「あの……どうかしましたか?」  どこか頬を桃色に染めるヤエは、小首を傾げる。  リュウキはハッとしながら目を逸らした。 「いや……なんでもないよ」  するとヤエは無表情のままに、グッとリュウキの顔を覗き込んでくるのだ。  そんな彼女の突然な行動に、リュウキの胸が高く鳴る。 「あなたの瞳……」 「えっ?」  思わず声が裏返った。  なぜだろう、彼女が氷に封印されていた時にはなかった、妙な感情がリュウキの胸に込み上げてくる。  内心どぎまぎしているリュウキをよそに、ヤエは尚も目をじっと見つめながら続けた。 「あなたの瞳、なんだか()ですね」 「えっ?」  あまりにも彼女は真面目な口調であった。  思いもよらない言われ様に、リュウキは崩れ落ちそうになる。 「僕が変だなんて!」 「あ……すみません、悪い意味ではないのですが」 「変、に良い意味はないだろう?」  思わず情けない声色になってさまった。  それでもヤエは、淡々とリュウキに向かって話し続ける。 「違うんですよ、本当に。その朱色の綺麗な瞳。なんだか馴染んでいないんです。上手く言えないのですが。妙な心情があなたから伝わってくる気がするのです」    リュウキの感情が高ぶったとき瞳は朱となり、目の前の景色さえも変色する。これは、リュウキ本人も説明ができない不思議な現象だった。  リュウキを眺めるヤエは、未だに戸惑いを隠せない様子である。 「リュウキ様教えてください。あなたはなぜ妖術のような力を持っているのですか? いつから火が出せるのですか?」
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