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肩に触れるリュウキの手を掴み、ヤエは俯いた。
「……氷の中でずっと、夢を見ていました」
「夢?」
「いえ──ただの夢ではありません。昔の出来事を思い出していたのかもしれません」
「どんな?」
ゆっくりとヤエから手を放し、リュウキは優しい眼差しで彼女を見つめ続ける。
「……私の村が軍に襲撃されていました。なぜ襲われたのかは分かりません。しかし混乱の中で、私は誰かに守られていました」
一瞬だけ、ヤエは瞳を滲ませた。
「……そうか。君も辛い過去を持っているんだね」
「あれが過去なのかは断言できません。それに、辛いのは私だけではありません」
ヤエの口調は落ち着いていたが、微かに震えていた。
「私、覚えています。この乱世に生きる人々が、辛く悲しい想いをしていることを。近年、東西の戦いは激しさを増し続けています」
「そうだね……僕も忘れていないよ。いつも争いに巻き込まれるのは、罪のない民だ」
話しているうちに、リュウキはやるせない気持ちになってしまう。
「それに……北国で繁殖する化け物の数も止まることを知りません。この子みたいに人間と共生する化け物が極僅かというのは存じております」
「僅かどころか、人間を守る化け物なんて常識では考えられないよ」
「……そうですね。だからこそ、化け物の存在も世の混乱の一因となっている。私でさえ懸念しています」
小さくため息を吐くと、ヤエは白虎の喉を優しく撫でた。目を細める白虎は、彼女の隣でごろんと横になると、腹を出してまるで巨大猫のように寛いでいる。
ヤエは一度大きく頷いてから、顔を見上げる。
「これから、下山するのですか」
「そうだね。もう少し峠を越えなきゃならないけど。陽が沈む前までには下山したいね」
「分かりました。それでは、あなたに付いていきます」
「本当に?」
たちまちリュウキの心が弾んだ。
「どうやら、僕のナンパが成功したようだ」
「……はい?」
「言っただろう。君を氷から解放したらナンパしてもいいかって」
「あの、勘違いしないでください。私はただ、自分の記憶を取り戻したいだけです。それに、ここがどこかも分からないのであなたに付いていこうかと」
ヤエは視界に入る白虎を見つめ、眉を八の字に変える。
「……それに、ハクが大変ご迷惑をお掛けしました。リュウキ様、少しお時間を頂きます。後ろを向いて、こちらに腰かけてくださいませんか」
足元の長剣をヤエはさっと拾い上げた。
「乱してしまったあなたの髪の毛を、せめて整えて差し上げます」
「本当か。それは助かる!」
「手先は器用な方なのでご安心ください。二度とハクを苛めないでくださいね」
「うん、白虎君が二度と僕に嫌がらせをしないと約束してくれるならね」
その場にさっと座り込むと、ヤエはリュウキの後ろに立った。
細くて柔らかい指先がリュウキの乱れた黒髪にそっと触れる。彼女の指と剣の刃先が、丁寧に後ろ髪を整えていく。この感触がなんとも心地良い。
リュウキは鼻歌を口ずさみながら、山の上から流れてくる梅の花びらを眺める。
「ヤエ」
「何ですか」
「少し登山はきついかもしれないが、癒しにはなるかもしれないね」
ヤエは一度、髪をすく手を止めた。
行く先の向こう側を見上げると、遠目でも分かるほどの梅の木々が山道を桃色に染めていた。
「そうですね。楽しみです」
なんとなく彼女の声は、柔らかくなっているように聞こえた。
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