第一章・失われたもの

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※    梅の木々が何百、いや、何千と並ぶ道を進みながら、ヤエは思いに耽っていた。  ──私の中には、思い出さなければならない相手がいる。憎くて仕方がない「男」のことだ。顔も背丈も名も忘れてしまった。しかし恨むべきあの「男」は、たしかに私の心の傷を深くした。大切なものを奪った。  あの者を、許すことはできない。  そうだ、身体が覚えている。私は……。  ──氷に封印された時、何度も同じ光景が頭の中に流れていた。  ヤエはその出来事を、無意識のうちに振り返る── 「抗うな」  意識の奥から、男の声が聞こえてくる。  憎きその男は、毎晩のように少女の身体を求めた。  だが少女は、寝床の上で横たわったままいつもなんの反応もしない。感じることもしない。ただひたすら願っていた。「早く終わってほしい」と。  男の囁き声、ぬくもり、吐息、手や舌の感触。全てが少女の心を壊していく。 「お前は、俺のものだという自覚がないのか」 「私は『もの』ではありません……」 「生意気だ。こざかしい女め」  男は、当たり前のように罵声を浴びせてくる。手を上げる。  少女には他に想い人がいた。しかし決して結ばれることはない。逃げられない。それが天命だから。   せめてこの男との子を孕まないよう、避妊に効果がある薬草を飲み続けた。不味くて苦くて吐きそうだった。それでも少女は、欠かさずにそれだけは怠らなかった。  ──冷たさの中でこの出来事を眺めていた時、最初はこの少女が誰なのか分からなかった。しかし繰り返し同じ光景が現れるうちに、いつしかそれがヤエ自身のことだと気がついたのだ。  思考を巡らせるのを停止する。歩みを止め、ヤエは口を開いた。 「リュウキ様」 「うん?」 「あの……私には、婚約者がいたのだと思います」 「えっ、そうなの?」  リュウキは目を見開く。散った梅の花びらが数枚、彼の整えられた黒髪に舞い降りた。 「ヤエは綺麗な女性だからね。そういう相手がいてもおかしくないか」 「相手がどんな人なのか、顔や名前も覚えていないのです。ただ一つだけ分かることがあります」 「何?」 「私はその人から、逃れたいと常に願っていました」  強めの風が、二人と一頭の間を吹き抜ける。ヤエは少し身震いした。 「大丈夫? 好きになれない相手だったのか」 「私はその男を憎いと思っていました。なぜなのか、はっきりとは申せません……記憶が戻らないと。だけど、私には他に愛する人がいたと思うんです。結ばれない相手だったようです。曖昧な話しかできず、申し訳ありません」  ヤエは目線を下に落とした。  本当は、このような話を出会ったばかりの男にするものではない。しかし、有力な情報になるかもしれないと、口に出さずにはいられなかった。  考え込むヤエの左肩に、リュウキはそっと手を添える。 「ヤエ、寒そうだね」  にこりと微笑むと、リュウキの右手から淡い青色の火が出現し、ヤエの全身を包み込んだ。その優しい炎は熱くもなくぬるくもなく、心地のよい温度がヤエを癒してくれる。  ──不思議な力だ。 「寒くなったらいつでもあたためてあげる。人肌くらいの小さな火の力なら、いつでも簡単に出せるんだ」 「……リュウキ様」  ヤエはこくりと頷いた。 「ヤエ」 「はい」 「僕に惚れた?」 「……はい?」  ヤエはハッとしたように彼から目を逸らす。 「あはは、冗談だよ」 「なんなんですか? からかわないでください!」  ケラケラ笑うリュウキに対し、ヤエは殺風景な顔を貫いた。  リュウキはニヤニヤしたまま再び歩き出すと、明るい声のまま続ける。 「結ばれるといいね」 「えっ?」 「その、君の恋人と」 「恋人、と言ってよいものか……。私は、彼の顔すら思い出せない無礼者ですよ」 「君の心はちゃんと彼を覚えているみたいだ。それだけで充分だよ」  リュウキは梅の花々を眺める。視線の先にある風景は、本当に見事だ。 「あなたは優しいですね……」  彼にも届かないような声量でヤエは呟く。この言葉の中に、なぜだか切なさが溢れた。  リュウキの後を追おうと、ヤエも再び歩みを進める。それと同時に、ハクもヤエの横に並んで動き出した──正にその時だった。 「ウゥゥッ……!」  突然、ハクが低い鳴き声で喚き出した。普段、あまり鳴いたりしないはずなのに。  ヤエはリュウキとほぼ同時に、ハクの方を振り返る。  ──すると。 「……ハク?」  たった今までそこにいたはずのハクの姿が、ない。 「え……? どうしてっ?」  ヤエは一瞬、息をするのを忘れた。  周囲を見回してみる。しかし、見当たらない。  梅の木の裏に隠れたのか? まさか山道の脇道に落ちてしまったか?  いや、違う。  どこを捜しても、いない。ハクの気配すら感じられない。忽然と、その存在を消してしまったのだ。  残っていたのは、土の上に微かに残るハクの足跡だけ。 「ハク」  焦ったような声質になってしまう。それでも構わず、ヤエは友の名を呼び叫んだ。 「ハク! どこへ行ったの? ハク……ハク!」  虚しくも風の囁きと共に、ヤエの声は消えていく。 「白虎君……急にいなくなったのか?」  リュウキも突然の出来事に、困惑しているようだ。  ハクは十三尺もの体長がある。そのような巨体で、瞬きをしているほんの僅かの間に姿を消してしまうなど。  ──おかしい。そんなの、ありえない。 「空でも飛んでいったのか?」  ありもしない発言をするリュウキに、ヤエはため息を吐いた。 「ハク」  ヤエにとっては、大切な存在なのだ。何の前触れもなく突如いなくなってしまうなんて。 「どうしよう、捜さなきゃ。ハクを捜さなきゃ……!」 「落ち着いて、ヤエ」 「落ち着けません! 早く下山しないと」 「この短時間であの白虎君が下山したなんて考えられないだろう」 「では、どこへ行ったのですか?」 「分からない。でも慌てたってどうしようもないだろう? 深呼吸して」  梅の香りが仄かに漂ってくる。どんなにいい香りがしたとしても、ヤエの心が鎮まることはない。 「ハク、お願い。出てきて! いなくなったなんて、嘘でしょう……?」  ヤエの叫び声はハクに届くことはなく、山の向こう側で反響するのみだった。  この異常な出来事に、リュウキさえも首を捻る。
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