第一章・失われたもの

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 ヤエが取り乱していると──  突如、何かの気配が現れる。なぜだろう、ヤエはすぐにそれを感じ取ることができた。その者は、どこからかヤエをじっと見ている。しかし、敵意はないようだ。  その対象者を目に入れる前だ。どこからともなく声がした。 「──残念だったな。ハクは、どこかへ飛ばされたようだぞ」    聞き覚えのない太い声である。  振り返るとそこには──灰色の瞳で二人のことを眺める男が、梅の木に凭れながら立っていた。真っ白な毛皮を身に纏い、筋肉質な両腕を組んでいる。 「な、なんだ? 急に現れてビックリさせるなよ」  リュウキは眉間に皺を寄せる。  それでも毛皮男は気にする様子もなく、微動だにしない。 「あなたは?」  ヤエは小刻みに震えながら、毛皮男に向かって問い掛けた。 「俺は……誰でもない」 「名乗る気がないのか」  毛皮男は無表情で首を横に振る。すると次に、男は突拍子をない話を始めるのだ。 「いいか、よく聞け。お前たちが今見ているものは『幻想』だと思え。全てを信じるな。記憶を辿り、確かめ、正解だと悟ったものだけが真実だ」 「……幻想? 記憶を辿る? 急に何をおっしゃるのですか」  ヤエの疑問に、男は肩を竦める。 「お前たちは普通じゃない。それはもう自覚しているだろう。失った記憶を取り戻したいのなら……いや。『現実』を見たいなら、俺が導いてやるよ」 「まったく、話の意味が分からないなあ」 「そのうち分かるだろうよ。少しずつでいい。記憶を取り戻すためには、意識の奥底に現れる『幻想世界』で真実を見つけ出せ。精神が破壊されないよう、己の力でどうにかしろ」    男の言う『幻想』の世界。ヤエには思い当たる節があった。 「幻想とは……もしかして、私が氷の中で見た夢のような世界のこと……?」  独り言のつもりでヤエは呟いた。  それに対して、毛皮男は静かに頷くのだ。 「幻想は夢なんかじゃない。寝ていても起きていても、突然目の前に現れるんだ。身体が過去を思い出そうとすると、意識が勝手に幻想の世界へ飛んでいく」 「へえ。それは面白そうだ。ぜひ僕も幻想世界に飛び込んでみたいね」 「安心しろ。すぐに見られるだろう」  リュウキがからかうような言いかたをしても、毛皮男は平然としている。どうやら嘘をついているわけではないようだ。  毛皮男はヤエの顔を見ると、更に続ける。 「それと──白虎の件だが。西の国最西端にある『シュキの城』へ赴くといい」 「何……?」  シュキの城?  その城の名を聞いて、ヤエは固まってしまった。 「なぜ、そんな場所に? シュキ城は王族の宮廷ですよね? 私たちが訪れるような場所ではありません」 「それはお前たちが決めることじゃない。兎に角、急いで行くんだ。次の満月の夜(・・・・・・)までにな。そうすれば、白虎とも再会できるだろう」  随分、強引な話である。具体性が全くない。突然現れて、訳の分からない話をする毛皮男に、さすがのヤエも不信感を抱く。  それはリュウキも例外ではないようだ。 「ちょっと待ってくれよ。名乗りもしない人の言うことを誰が聞くと思う?」 「名前などと言うものは、人間が勝手に作り出したものだろうが」 「ないと不便だろう?」 「……ふん。ならばナナシ、とでも言っておくか」 「ナナシ……結局、名無しさんなんだね」  適当とも言えるナナシの答えに、リュウキはため息を吐いた。  益々怪しい。  ヤエは眉を落とす。 「ナナシ様。そんな遠い場所にハクがいるのですか? 信じがたいのですが」  ナナシは一瞬だけ憂いある表情になった。だが、すぐに顔をしかめるのだ。 「俺の話が信じられないならそれまでだ。己で手当たり次第、化け物の行方を捜すんだな。まあ、なんの手がかりもなしに見つけ出すのは不可能だと思うが?」 「……」  今は一切の手がかりがない。行くべき場所も分からない。ナナシの言うとおりこれは事実である。  無意識にヤエは拳を握り締めた。 「せいぜい悩んでいろ。万が一行かないと決断した後、旅の行く先があるのか問いたくなるがな」  捨て台詞を吐くように、ナナシは不敵な笑みを浮かべる。  すると突如、白い毛皮が逆立った。  ヤエたちから背を向けた次の瞬間──白いその姿が一瞬のうちに消え去ってしまったのだ。 「えっ、消えた……? なんだ、瞬間移動でも流行っているのかっ?」  目を擦ってみるが、本当にどこにもナナシの姿は見えなくなってしまっている。  嘘のように辺りは静まり返った。風の音すら響かない、無の空間と化していく。  すがりつく相手が、この場ではリュウキしかいない。思わず涙声が出てしまうヤエ。 「……リュウキ様」 「うん?」 「ハクを……助けたいです」 「うん。それで?」  意地悪そうにリュウキは笑うが、ヤエは至って真剣なのだ。 「お願いです、力を借してください」 「僕が? うーん。どうしようかな」  リュウキは大袈裟に、後ろ髪を手のひらで靡かせた。 「……あなたの大切な髪を、ハクが傷つけてしまったことは本当に悪いと思っています」 「そうだね、すぐに髪の長さは元に戻らないだろうなあ。まるで僕たちの失われた記憶のようだ」  ヤエは目線を下に落とす。  あれほど火を吹いていたリュウキだ。怒りの対象の為にわざわざ手を貸してくれるだろうか。  リュウキは共通点があるヤエと行動を共にしたい、と申し出た。それならば、ヤエもここで懸けをする必要がある。 「もしもリュウキ様が協力できないと仰るのなら、私一人でシュキ城へ向かいます」 「なんだって?」  化け物や山賊が荒らし回る地を、たった一人渡り歩いて旅をするなど危険極まりないのは承知の上。だがどんなに危険だとしても、ハクを捜し出したい。  記憶をなくしていたとしても、心は覚えていた。ハクという存在自体が大切なのだと。  それに氷で身動きが取れない時、ハクはずっとそばにいて守ってくれた。それもたしかな現実である。  ヤエを眺めながら、リュウキはふっと鼻で笑うのだ。 「あの男の話を信じるんだね」 「……いえ。正直、半信半疑です。でも他にどうしようもありません」 「たしかに言えてる。だからちょっと悔しいけど」  短く息を吐くと、リュウキは優しく微笑んだ。 「ヤエは本当にあの白虎君を愛しているんだね」 「……大事な存在なんです」 「そうか。それなら仕方がない。僕も白虎君捜しに付き合ってあげる。どうしても君にはそばにいてほしいからね」 「本当ですか?」  ヤエは目を大きくしてパッと顔を上げた。 「うん。その代わり、条件があるよ」 「なんでしょう?」 「もし白虎君を見つけられたら、笑ってくれないかな」 「えっ?」  リュウキの思わぬ一言に、ヤエは目を見開いた。  彼の水色の瞳は、キラキラと輝いている。 「君は美人なのに、仏頂面していたら勿体ないよ。ヤエが心から笑っている姿を見てみたいな」 「……」  ヤエは一度リュウキから顔を背けた。 (こんな乱世に生きていて、笑うなんてこと)  ──だが、大切な友を見つけ出すためならきっと……。  小さく頷き、ヤエは無表情でもう一度リュウキのことを見上げる。 「承知しました、お約束します」    ──気づけば、陽はちょうど空の真上に位置していた。二人の影は並んで山の下り道へと進んでいく。  微かに地に残る足跡には、美しい梅の花びらが静かに舞い落ちていき、二人の軌跡を桃色に染め上げた。
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