アイネクライネを盗んで

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 そうやってみんなで呆然としていると、あの人がイヤホンを外し、ミュージックプレイヤーを机に置いてから、私たちのそばまで歩いてきて立ち止まりました。  そして、意外に低いかすれた声で小さく呟きました。 「な、涙は、生物が昔、海に生きていた時代の、名残なんだ」  え? なに? 何の話? とみんなが混乱して黙っていると、あの人は続けました。 「だ、だから、涙を、な、流すことに、意味なんて、ないよ」  あの人はそう言うと、クルッと回れ右して教室を出ていってしまいました。  みんな呆気に取られて、ボーっとあの人が出ていくのを目で追っていました。そして、あの人が教室の外へ出て見えなくなると、みんなが一斉に怒鳴り声をあげました。 「なんだ、あいつ!」 「ひどい! ひどすぎる!」 「こんなに傷ついているのに!」  ハルカも泣くのを忘れてみんなと一緒にあの人への怒りを叫んでいました。  私は怒りで体中が震えていました。傷ついたハルカにあの暴言、絶対に許さない。私の中であの人は悪だと認定されました。 「なんやねん、アイツ! ちょっとシバキ回したいわ!」  私がそう罵ると、さっきまでの怒りはどこへやら、みんな口をモゴモゴさせ大人しくなるのでした。 「あ、怒りのあまりついキツイ関西弁をだしてしまった」  私は冗談ですよと笑いました。いつもならこのノリで盛り上がるみんなでしたが、あの人が絡むとまるで態度が変わってしまうのでした。 「いや、だってほら……」 「アイツの、オヤジがなぁ……」 「そう、父親が……」  聞いていくと、みんながあの人を無視している理由がだいたいわかりました。  あの人のお父さんはガラが悪くて、しょっちゅう警察のお世話になっているらしい。あの人はそんなお父さんと二人で暮らしているらしい。多分あの人もなにか悪いことをしているらしい。だから関わり合いにならないほうが安全らしい。  らしい、らしい、らしい、らしい。全部憶測や推測や噂話からくるもので、具体的に彼がなにかをやったという話はまるで出てきません。  ですが、それでも、みんなの中ではあの人を徹底的に無視することが最適解のようで、最後には 「穂奈美ちゃんも、あの人とは関わり合いにならない方がいいよ」 と、これ以上あの人の話を私にさせないようにみんなは釘を刺すのでした。
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