アイネクライネを盗んで

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 その日の放課後、私は転校に関する書類を書かないといけなくて、遅くまで学校に残っていました。  私はなんとか書類を完成させ、それを職員室へ持って行こうと立ち上がりました。  (立ち上がるといえば)  私は朝に見た、あの人が立ち上がる姿を思い出しました。あの人はあの後、教室を出たまま帰って来ませんでした。 「あの人は本当に悪なのだろうか」  あの人の机を見ると、あの人が今朝外したミュージックプレイヤーが外されたそのままの恰好で机の上に置いてありました。  私はそのミュージックプレイヤーを手に取ると、何の曲が入っているのか操作してみました。 「え? 一曲だけ?」  そのミュージックプレイヤーには一曲だけしか曲が入っていませんでした。あの人は一曲をずっとリピートして聞いていたようでした。  私は再生ボタンを押しました。イヤホンを自分の耳に差し込むのは何となく遠慮して、耳から少し離したところにイヤホンを持ってきて、漏れ聞こえてくる音楽に耳を傾けました。  『アイネクライネ』  その曲は、米津玄師さんの『アイネクライネ』でした。  私は停止ボタンを押し、静まり返った教室のあの人の席に座ってみました。  当たり前でしたが、一番後ろの席なので教室全体が見渡せました。  思い返すと、あの人は目を伏せていましたが、窓の外を見ていたことはありませんでした。目を伏せていましたが、顔を伏せていることはありませんでした。  誰に視線を送るわけでもないですが、あの人は私たちの方に顔を向けていました。 『アイネクライネ』を聴きながら。  ふいにあの人のあの低い声が聞こえた気がしました。  私は下校の準備を整え、提出する書類を手にすると、職員室へ向かいました。  担任の先生の机にたどり着くとそこに先生はいませんでした。  私はふと生徒名簿が置いてあることに気がつきました。運命的なものを感じ、私はそれを手に取るとパラパラとページをめくりました。
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