漕艇絵巻

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それから毎日ボートの鍛錬に明け暮れました。ボートに乗るたびに、ボートという乗り物の奥深さを感じずにはいられません。ボートを前に進めるには、オールの先で水を捕らえる必要があります。捕らえた水をテコにして、ボートを前に押し出します。このときオールが深く入りすぎていても、浅すぎても水はすぐに壊れてしまいます。絶妙な深さにオールを入れることが肝心なのです。しかもそんな繊細な行為を、前に進み続けているボートの上で行うのですから簡単にできるはずがありません。  そして己の体の力も制御しなくてはいけません。ボートは足で漕ぎます。なぜなら人間は足で地面を押す力はとても強く、腕の力はとても弱いからです。人間の最も強い足の力をボートの推進力に変えるのです。だからオールを持つ腕は絶対に力を入れてはいけません。ただ足の力をオールに伝えるためだけの存在になるのです。これが素人にはなかなかできません。頭で理解していても、実際にボートの上になると腕がカチカチになってオールを操作してしまうのです。ただ毎日練習していると、だんだんコツが掴めてきます。己の足だけに力が入り、その他の部位はリラックスできているとき、ボートは嘘のように軽く動いてくれます。  オールで水を捕らえ、捕らえた水をテコにして、足の力でボートを前に進める。これができたとき、ボートは鳥のように羽ばたいてくます。私は初めてその感覚に到達したとき、本当に鳥になれたと実感したのです。  ボート競技は2000メートルの直線コースのレースになります。速くて6分、遅くて10分ほどかかります。陸上でいう短距離種目と長距離種目の両方の要素が入っています。瞬発力だけでも、持久力だけでも、ボート競技で勝つことはできないのです。  ボート部に入部してから4ヶ月後、先輩は高校最後の大会に臨まれました。県大会の決勝まで順当に勝ち進まれました。決勝には4人が出場し、1位になった選手だけがインターハイに出場できます。  先輩はスタートから飛び出し、1500メートル付近までトップを守ります。しかし徐々に疲れが見え始め、残り300メートルのところで2位の選手に追いつかれます。誰がどう見ても先輩の方が疲労困憊です。相手選手のボートが少しだけ前に出ます。先輩はこれ以上抜かれまいと懸命に漕いでいます。このとき私は岸から自転車に乗って観戦しておりました。私は先輩に負けてほしくない、ただそれだけでした。全身全霊の祈りを込めて私は先輩に叫びます。 「せんぱーい!ラスト足蹴り20本!さあ、行こう!!」足蹴りとは自分の120%の力でボートを漕ぐことです。相手より少しでも前に出る時に使います。ゴール直前は特に苦しいものです。その苦しさの中で足蹴りをすることは肉体的精神的に強くないとできません。先輩ならそれができる、私はそう確信していました。  私の声が届いたのかは分かりません。ただ先輩は最後勝ちました。わずか数センチの差でした。岸に上がってきた先輩に、私は泣きながら思わず抱きついてしまいました。先輩は私の頭をポンポンとして、「ボートの片付けが先だ」と言いました。ボートを片付けるまでがレースなのです。私も片付けを手伝います。  片付けが終わると表彰式が行われました。そこで授与された金メダルを、先輩は私にかけてくれます。そして私に言いました。 「次はお前の番だ。もっと肉食って体大きくして凄いボート選手になれ。まあ、今でも良い肉してるけどな」  此奴…やはりモノノケの類か!!こんな風な青春を私は送って参りました。
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