漕艇絵巻

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 真っ黒な化け物がこの街に初めて姿を現した、くっきりとした夜のことでございます。私は足早に川の横を歩いておりました。うつむき加減で周りの物は何も目に入らぬといった様子で、グングン前に進んでおります。キュッと口を閉じて目は少しだけ赤くなっております。喜びや希望と言ったものとは正反対の心持ちで、夜の川沿いの道を進んでいました。いつもは綺麗に見えている川の流れも、そのときばかりは真っ黒な化け物に見えてしまったのも無理からぬ話であります。  私はこのとき高校一年生でした。先週入学したばかりなので、世間で言うところのピカピカの一年生です。それなりに頭の良い高校です。一番行きたかった高校です。猛勉強の末に合格を手にしたのです。だから私は希望に満ち溢れておりました。両手に抱えきれないほどの希望…ごく控えめに表現してみました。  そんな私の希望を打ち砕く出来事がちょうど本日発生しました。そろそろ部活動を決める時期でしたので、私は入部届を持って職員室に向かいました。高校での部活動に迷いはありません。こう見えて中学時代はバスケ部に所属し副キャプテンでセンターのポジションをしておりました。身長も170センチ近くはあり、女性の中では大きい部類かと思います。  中学最後の試合で負けた後、三年間を共に歩んできたキャプテンから言われたのです。「あんたはもっと上手くなる。あんたがもっと上手ければ今日も勝てた。もっと上手くなってチームを勝たせる存在になれ」お互いに涙を流しながら、キャプテンは私を鼓舞してくれたのです。この言葉に私の心は奮い立ちました。高校でもバスケを続けよう。もっと練習してチームを勝たせる存在になろうと。「私がもっと上手くなったら、どこかで対戦できるかな?」と私はキャプテンに尋ねました。「かかってきなさい。絶対に負けないから」とキャプテンはニカっと笑いました。  この春、キャプテンとは別の高校に進みました。キャプテンとの約束を果たすために、私はバスケ部への入部届けを顧問の先生に持っていったのであります。 「失礼します。○○先生、バスケ部への入部届けを持って参りました」先生は私の方に一瞬だけ目をやった後、「はいはい」と言って入部届けを受け取りました。入部届けに書かれた私の文字を大義そうに眺めながら、「どこ中のバスケ部だったの?」と尋ねられました。「〇〇中学でセンターをやっておりました」と答えると、「ふーん、あっそ」と先生は入部届けから手を離されました。投げ捨てたと表現した方がいいかもしれません。入部届けは机の上にヒラヒラと舞い落ちました。それ以降、先生は私の方を見ることも私に言葉をかけることもありませんでした。私に対する興味というものを完全に無くされている様子でした。私に邪魔されたのであろうパソコン仕事を再開され、それをポツンと見ているしかありません。受理の判断さえ放置されてしまった入部届けだけが白々しく私の方を見つめておりました。私の中で黒いものが生まれ、それがだんだん大きくなる感覚になってきました。その感覚に居た堪れなくなって私は職員室を後にしました。  そこからは必死に足を前に出すだけでした。気がつくと私は夜の川沿いを歩いておりました。その川を夜の化け物と表現して、貴方様に紹介したのがこの物語の始まりというわけです。その化け物の上を屋形船が通っていきます。私を嘲笑うかのように、屋形船は虹色に輝いております。夜の化け物よ、あの屋形船を呑み込んでしまえと私は知らず知らずのうちに祈っておりました。その祈りが通じたのか、屋形船は暗闇の中に消えていきました。私はまた化け物と二人っきりになりました。私の中で生まれた黒いものは完全に私と一体化し、夜の化け物と仲良くなっております。黒い私と夜の化け物。この世界には私たちしかいない。私たちは手を取り合って、歩き始めたのでございます。  そのうち夜の化け物は囁き始めます。手を握っているだけじゃ満足できない、どうせなら一体になろう、君の全てが欲しいんだ。その誘惑に一瞬戸惑いながら、心惹かれている自分がいました。私の前に橋が見えてきました。私は橋の中央部分にまで足を伸ばします。そして橋の手すりから身を乗り出し、化け物に顔を近づけました。私は化け物の真上にいます。化け物は私が降りてくるのを今か今かと待っていました。  さあ、早くここにおいで。私と一体になってしまおう。そんなに黒く汚れてしまって、可哀想に。それじゃあ恥ずかしいだろ。光がある世界にいたら、黒い汚れは目立つからね。こちらの夜の世界においで。こっちなら黒い汚れは目立たない。むしろ勲章になる。君の汚れにみんな夢中さ。さあ、早く降りてきなさい。怖くなんかないから。苦しいのも冷たいのも一瞬で終わってしまうから。  私の心はどんどん惹かれていきました。頭はもう何も考えることはできません。夜の化け物に近づこうと、手すりの外側に体を押し出していきます。爪先立ちをしていた両足が宙に浮き始めました。手すりが腰を超え始めす。後は両手で体を押し出せばいいのです。鉄棒で前周りをやる要領です。私は鉄棒が得意なので大丈夫です。きっと上手くやれます。川独特の匂いが鼻に入ってきました。これが化け物の世界の匂いなのだ。私はもうすぐ夜の世界に行くことができるのだ。私はだんだん嬉しくなってきました。さあ、夜の世界に参ることに致しましょう。  私が両手の指に力を込めようとしたその瞬間、白い鳥が目の前を通過していきました。いや、それは鳥ではありません。人が乗っています。人が乗った船のようなものです。人が二本のオールで漕いでいます。白く細い船を人が漕いでいるのです。川の水面を鳥のように軽やかに滑っていきます。  船の人と私はしっかり目が合いました。私は目を逸らそうとしたのでしょう。もしくは自分が行おうとしていることを悟られないようにしたのでしょう。瞬間的に体を橋の上に戻しました。私は両足で地面の上にしっかり立ち、空を仰ぎみました。夜空に星が輝いているのが見えます。  もう一度川の方に目をやります。船の人はもう小さくなっていました。遠くから見ると余計に白い鳥のようでした。私は制服についた汚れをはたき、カバンを持ち上げました。目を閉じて大きく深呼吸をします。川独特の磯の香りが鼻を抜けていきます。  目を開けると、もう夜の化け物は姿を消していました。そして、私を支配していた黒い物も薄まっておりました。もう少しだけ光の世界を生きようと思いました。夜の世界にはいつだって行けるのですから。私は再び歩き始めました。遠くに見える白い鳥の方向に私の家はありました。いつもより少しだけ足早になっておりました。
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