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第15章 歩く速さでゆっくりと
わたしにとって最大限の得しかない、これまで記憶にある中でも最高の夏が到来しようとしていた。
何と言ってもうゆちゃんと奥山くんという、人生においての二大推しが目の前でいちゃいちゃする尊い場面を思う存分かぶりつきで見られるって保証付きだ。彼をうゆちゃんが自分の部屋で引き受ける。って決めたとき、彼女との二人きりの暮らしに介入されて邪魔が入るとか思うよりも先にまずわたしの頭に浮かんだのは、そんな理想的未来の幻想風景だった。
もちろん、実際に同居生活が始まるとさすがに『いちゃいちゃ』は期待し過ぎもいいとこだったな…、ってちょっと冷静にはなったが。
うゆちゃんが奥山くんに接するときの態度はほぼわたしに対するのと温度差はない。平等っちゃ平等だから、それはそれで嬉しいけど。
だけどつい彼のことを異性と意識し過ぎて逆に素っ気なくなっちゃったり、ほんの些細なきっかけでぱっと頬を赤らめちゃったりするうゆちゃんてのも見てみたかったんだよなぁ…。想像するだけで萌える。でも、改めて考えてみるとさすがに夢持ち過ぎか。
いつも要領よくてきぱきと家事をこなし、わたしや奥山くんの世話を積極的にやく。それで大丈夫そうと見ればじゃあ、わたしは学校(バイト、あるいは道場)に行ってくるから。二人とも自由にしてて、とクールにさっと出かけてしまう。
わたしはずっと彼と一緒の部屋にいてなるべく細々と面倒を見てあげた方がいいのかな。としばらくの間は迷ってたけど、あんまり同じ部屋で他人にそばにずっといられて世話を焼かれてたら心が休まらないか。と途中で思うようになって、以来うゆちゃんと同じように適当に出かけたり、部屋にいるときでもすっとロフトに引っ込んでそこで寛ぐように過ごし方を変えた。
長い目で見ると、狭い空間に三人の人間がぎりぎり同居してるわけだから。あまりに距離を詰め過ぎると息苦しくて続かない。うゆちゃんくらいのやや突き放す程度の間隔の置き方が正解なんじゃないか、とわたしの考え方も自然と変化していった。
わたしたちの部屋に来てしばらくの間、奥山くんはやはり気を張ってたのがどっと力が抜けて一気に呆けてしまったようで、見てるとただ壁に寄りかかってぼうっと過ごしてることも多かった。
だけど一週間もすると次第に精神的に落ち着いてきたらしく、視線も定まって受け応えもはっきりしてきた。
目に光が宿り始めた、っていうのかな。一時は不意に声をかけられたときなんか、一生懸命にスイッチを入れて焦点を合わせようとしてるんだけどなかなか追っつかない、って様子も見られてちょっと心配になったもんだけど。
翌週になると、会話のキャッチボールも普通にしっかりしてきて、ちょくちょく笑顔も見られるようになってようやくこっちもほっとした。しかしそうなるとやっぱり、意識のはっきりしてきた奥山くんはふとした瞬間にしみじみとうゆちゃんに見惚れてることが目に見えて増えてるようだ。
まあ、それは無理ないよな。とキッチンに立つべくそっちへと向かう彼女の後ろ姿をちら、とあまりあからさまにならないよう気配りしつつ視線を走らせる奥山くんに気づかないふりでそっと目を逸らして考えた。
中学卒業以来五年間も会えずにいた好きな女の子と、思いがけずひとつ屋根の下で暮らせることになったら。そりゃつくづくと飽きるほどその姿を眺めたいよね。彼は自分の思いを隠せてるつもりなのか、わたしにも彼女に対するのと同じにきちんと感じよく丁寧に接してくれてるけど。
傍から見てると思わずふ、と頬が緩んじゃうくらいうゆちゃんへの気持ちが既にところどころだだ漏れだ。
そんな二人のもどかしい関係がわたしの性癖ど真ん中に大ヒットというか。とにかく密かに胸の内でめちゃくちゃ萌えてる。中学生の頃そのままで全く進んでないように見えるのがまた、どうしようもなく愛おしい。
「…てわけで今日もね。うゆちゃんがてきぱき支度してじゃあ、行くよ。って言い置いてさっと出て行くのをあたふた追っかける奥山くんがまた何とも…。それでいて、彼女が開けたドアを急いでさっと手を伸ばして支えて、うゆちゃんが絶対に挟まったりどこかをぶつけたりしないように当たり前みたいに気を配ってるんだよ。地味な動きでうゆちゃんは絶対に気がついてないと思うけど。ほんと、メンタルが王子だよねぇ。あの二人ってもう絶対お似合い。見てるだけでついにやにやしちゃう、いつも」
とはいえ内心でにたついてるだけでこの思いを吐き出す場所が普段はない。それで結果ターゲットになるのは消去法で越智くん、てところにどうしても落ち着く。
だいぶ元気になってきた奥山くんをずっと観察してタイミングを測っていたのか、最近になってうゆちゃんは自分の通ってる空手道場に彼を連れて行くようになった。
小学校三年生までは二人が地元で同じ道場に通ってたってことはわたしも知ってる。
だけど、うゆちゃんの方はその後もずっと空手を続けた結果中学で最高全国二位まで昇り詰めた上澄みも上澄みの実力者だ。そんな彼女が地元でお世話になってた師範から紹介を受けた折り紙付きの本格的道場でしょ、東京で通ってるのも。とっくに子どもの頃にやめた人が行ってちゃんと通用するもんなの?
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