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第十二章 七海の地図
「止めてくれ、ちょうどこの辺りだろう」仮面男は運転手に言った。車はゆっくりと停車する。窓の外には驚くべき光景が広がっていた。七海はその光景に少し混乱した。父が話してくれた光景とはあまりにも違っていたからだ。
「旧神居古潭駅」…屋根の看板にはそう描かれていた。あずき色の屋根に緑の壁と柱、そして青色のベンチが回りに置かれている。明治時代ごろの西洋風駅舎が七海たちの前に現れた。
「中に入ってみよう」仮面男に言われるがまま、七海は車を降りて駅舎の中に入った。駅舎の中は木材で作られたテーブルと椅子が置かれている。壁にはこの地域のことを紹介したパネルが何枚か貼られていた。仮面男はそれらに興味を示さず、反対側の出口を目指した。
反対側の出口は駅の乗降場になっていた。石畳のホームに立つと、線路が二本と向こう側の石垣が見える。石垣の奥には木が生い茂り大きな枝が垂れ下がっていた。この線路はもう使われていないのだろう。ところどころ割れて粉々になっていた。とても電車が走れる線路ではない。かつて人がたくさん乗り降りしていた駅のホームには、寂しげな風が吹いていた。生い茂る木がその風でワサワサと揺れた。今このとき、七海と仮面男だけがそのホームに立っていた。
「さあ、ポルトガルの使者よ、どうやってここで祖国を救うんだい?」仮面男は両手を広げて七海に尋ねる。「何をするか私に見せておくれ」そう言って、クルっと一周その場でターンをした。
七海の頭はまだ混乱していた。父に教えられたのだ。かつてのご先祖様は岩で蛇に出会ったのだと。蛇がのたうち回るような模様をした不思議な岩。その岩に蛇は棲んでいて、願いを叶えてくれたのだと。ただ、ここにはそのような岩もなく、寂れた駅のホームしかない。場所を間違えたのか、でも星マークはここを指し示している。父は私に嘘を言ったのか、でも、それじゃあ何もすることはできない。
「どうした、ポルトガルの使者よ、何か動きを見せておくれ!」仮面男はさっきよりも大きな声で七海に動きを要求する。その声は想像以上に大きく、ずっと遠くの方まで木霊した。そのせいなのか、生い茂る木たちがまたワサワサ揺れた。そう言われても、七海は成す術なく立ちすくんでいた。
木が揺れるのが止まり、再び静寂が訪れた頃、どこからか声が聞こえた。「おーい、うるさいぞ、目が覚めちまったじゃないか、そんな大きな声で叫ぶんじゃないよ」声がする方に目をやっても、そこには石垣と木しかない。七海と仮面男は驚いて目を合わせた。「全く人間という奴は、いつまで経っても騒いでおるな、静かにするということができんのだ」さっきよりもはっきりと声が聞こえる。しゃがれているが、よく通る声だった。「お二人さん、こっちだ、こっちを見なされ」声がする方をじっと見つめる。見つめた先には石垣しかない。灰色の石の塊が積み重なっている。でも、よく見ると灰色以外の色がちゃんとあった。真っ白な太い曲線が灰色にへばりついていた。白い曲線の端には二つの黒い点がついている。それは目だった。「はじめまして、だね?」そう言うと、目の先から赤い舌が出てくる。この白い曲線がしゃべっているのだ。どう見てもそれは一匹の白い蛇だった。蛇が石垣の中から這い出てきたのだ。
「父が言っていた通りだわ」七海は頭の中で思った。白い蛇はちゃんと実在したのだ。「ほう、あんたの父親はワイのことを知っておるのかい?」蛇は七海に向かって質問した。どうやら七海の考えていることも蛇には聞こえているようだった。
「はい、父にあなたのことを教えられ、ぜひあなた様に会いたいと思い、ここに参上いたしました」七海は一歩前に出て、深々と蛇に礼をした。
「ご丁寧にどうもありがとう、それでそちらは?」仮面男の方に蛇は目をやる。仮面男は驚いた顔をしたまま固まっている。言葉を話す蛇が目の前にいることを、現実のものとして受け入れられないでいた。
何の反応もない仮面男に対して蛇はあきれ顔になる。「これだから若い男は嫌だ。礼儀もわきまえずに、そのくせ自分の見た目だけには変なこだわりを見せる。何だ、その仮面は?何を考えているのかもさっぱり分からないではないか。そちらの女性のように、素顔を見せて挨拶でもしてみたらどうだ?」
そう言われても仮面男は固まったままだった。身動き一つ取れないでいた。仮面男は小さい頃から蛇がとても苦手だったのだ。蛇を見ると恐怖から身体が動かなくなるのだ。きっとキリスト教にまつわる蛇の逸話をたくさん聞かされてきたからだろう。しかも、それに加えて目の前の蛇は言葉を話した。非現実なものと苦手なものが同時に襲ってきたせいで、頭の中は真っ白になっていた。
「そうか、ここまで無礼な男は初めてだ。それではワイの前から退室してもろうか」蛇がそう言うと、蛇の目が真っ赤に光り始めた。そして遠くの方からガタンガタンという音が聞こえ始める。時々シュポーという蒸気が抜ける音が聞こえる。その音はどんどん大きくなり、黒い蒸気機関車が姿を現した。走るには適していない穴ぼこだらけの線路を軽快に走っている。そして七海たちのプラットホームにゆっくり停車した。
「これに乗って、帰りなさい。行先は運命が決めてくれる」蛇に言われるがまま仮面男はその汽車に乗った。何の言葉も発さず何の抵抗もなかった。汽車はゆっくりと発車し、大きくカーブすると姿が見えなくなった。
「これで邪魔者はいなくなった。ご用件は何かな、お嬢さん」蛇は七海の方に向き直る。
「はい」七海はもう一歩前に出る。七海と蛇はしっかりお互いの目を合わせた。二人の間には朽ち果てた線路がどこまでも伸びていた。
「私の祖国ポルトガルが、再び危機に瀕しています。隣国スペインからの侵攻を受けようとしているのです。スペインは今度こそポルトガル完全制圧を目指しています。このままでは私の愛する祖国が亡くなってしまう。どうか貴方様のお力で、ポルトガルをスペインから救ってはくれませんか?どうか、どうか」七海は胸の前で両手を組み祈るように、蛇に願い事を告げた。
蛇はそれを聞いてからしばらく黙ったまま、七海を見ていた。
「ああ、思い出した。君の臭いはどこかで嗅いだことがあると思っていたのだが、今思い出したよ。あの石工職人だ。数百年前にワイの棲み処を切り出したいと言ってきた図々しい石工職人と全く同じ臭いがする」
「はい、私はその石工職人の子孫です。あなたの力で西の果てに行き、ポルトガルという国作りに貢献しました」
「うむ、よく覚えているよ。透き通った瞳をしていた。君は全く同じ瞳をしている。そして臭いも全く同じだ」そして蛇は頭を傾げて、言葉を続けた。
「ポルトガルを救ってほしいという願いは、前にも聞いたことがあるな。確か、スペイン軍に城を包囲されてしまったから、そこから救ってほしいと言われた」
「それも私の先祖です。その節はポルトガルを救っていただきありがとうございした」七海は手を組んだまま礼をする。カタリーナ王女が七海に伝えた通りだった。七海は涙が出そうになる。
「全く歴史は繰り返すのだな。人間という奴は進歩がないのだ。では、お嬢さん、そなたの願いを叶えるための赤い石は持ってきたかな?」七海は蛇の言葉を疑う。赤い石?そんなのは聞いたことがない。羅針盤に使われていたのは確か緑の石のはずだ。
「赤い石ですか?すいません、持っていません」七海は正直に伝える。
「ふむ、困ったな。赤い石がないとワイの力は発動できないんだ。前にポルトガルを救ったときは、ちゃんと赤い石を持ってきておったぞ。そのことは聞いていないのかな?」
「はい、誰からも赤い石のことは聞いておりません。そのような伝説は一族に遺されていないのです」
「そうか、ただ変だな。さっき赤い石が地上に向かって落ちていくのが見えたんだ。あれが落ちていくということは、誰かが赤い石を手にしたということ。お嬢さんのことだと思ったんだが、違う誰かだったんだな」
「どうすれば、赤い石を手に入れることができますか?」七海は慌てて尋ねる。
「残念だが、赤い石は二つしかないんだ。一つは前にポルトガルを救った時に使い、もう一つはさっき誰かが持ち去った。その誰かから奪い取るしかないだろうな」
「そ、そんな…一体だれが…?」七海は絶望で顔を覆った。こんなに大きな大地で赤い石を持つ人間を見つけるなんて絶対に無理だ。こうしている間にもスペインに祖国が蹂躙されてしまう。
「こればかりはワイにもどうすることもできないのだ、申し訳ない」
「いえ、仕方ありません。赤い石を持って出直して参ります」七海は顔をぬぐい、きりっと前を見てスーツケースを持って立ち去ろうとした。
「ちょっと待たれい」背後から蛇の声がした。「せっかくここまで来られたんだ。もう少し話をしていかんか?」
七海は蛇の方を振り返る。「そこに立っていないで、こちらにおいで。ワイの家でお茶でも飲みながら話そうじゃないか」蛇は七海を手招きした。七海はホームから線路に降りて、蛇がいる石垣の方へ歩いていく。
「こっちだ。付いてくるがいい」そう言って蛇は石垣の間に入っていく。どう見ても七海が入れるスペースはない。だが、七海は言われた通りにする。蛇が入った間に右手を伸ばす。すると、スルリと身体が通り抜けた。狭い石垣の向こうには大きな岩に囲まれた空間がある。上からは太陽の光が少しだけ降り注ぎ、部屋の真ん中にはテーブルとソファが置いてある。
「どうぞ、好きなところに座っておくれ」蛇は一人掛けのソファに座っていた。七海は言われた通りソファに腰がける。ちょうど蛇の斜め左の位置だった。
「ようこそ、我が家へ。ここにはまだ誰も来たことがない。そなたの祖先も、今まで生きてきた人間みんな知らない」そう言って蛇はポットからお茶を入れる。
「お招きいただきありがとうございます」七海は座ったまま礼をした。お茶からは甘い香りと湯気が立っていた。湯気の向こうから蛇がこちらを見ていた。七海はそこから目をそらさずに、湯気が収まるのを待った。
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