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第十三章 蛇の部屋
「もしよかったら、お菓子召し上がりますか?」七海はお茶を一口すすってから蛇にお菓子を勧めた。ポルトガルにいたとき飲んでいた紅茶にとても近い味のお茶だったため、ポルトガルのお菓子が合うと思ったのだ。
「ポルトガルのお菓子かいな?ありがたい、ぜひいただこう」蛇がそう言うので、七海はスーツケースから小さな木箱を取り出す。その中に布に包まれた一口サイズのお菓子が十個ほど入っていた。それを全てお皿に並べる。
「モーレスというお菓子です。外はサクサクで中に卵黄のクリームが入っています」
蛇は一つ手に取り口に入れる。美味しそうに咀嚼して飲み込み、「こいつは美味い!お嬢さんは料理上手なのだな!」蛇は目を見開いて手を叩いて喜んだ。
「たくさん召し上がってくださいね」そう言って七海も一つ口に入れる。甘いクリームが口に広がる。ポルトガルの懐かしい味が口の中を駆け巡った。
「ポルトガルでは毎日こんな美味いものを食べているのか?」
「毎日というわけではありません。日曜日の午後、家族が集まるお茶の時間に母がよく作ってくれました」そして大人になり、カタリーナ王女に付いてイギリスに行ってからは、王女様とお茶をするとき七海自身がモーレスを作った。素朴だけど懐かしいモーレスの味にカタリーナ王女はとても喜んでいた。
「家族か、ワイにも家族がいたんだ。はるか昔のことだが」蛇は寂しそうに下を向いた。
七海は蛇のカップにお茶を注ぎながら、「いつからここに住んでいるのですか?」と尋ねた。蛇はズルズルとお茶をすすりながら何かを考えていた。七海はただ黙って蛇が話し出すのを待っていた。
「ワイがこの岩の中に住み始めたのは、千年ほど前のことだ。ワイが望んで住んだのではない。強制的に住まわされていると言った方が正しい」
「誰に強制されているのですか?」
「とても大きな力だ。言葉ではとても形容しきれない。この世界を司るものだとだけ言っておくよ。うん、この表現以上のものはない」蛇は自分の言葉にうなずいた。そして「お菓子のお礼だ。お嬢さんにワイのことを話しておく。信じてくれないかもしれないが」と言葉を続けた。七海は座り直して姿勢を正した。
千年以上前、蛇はまだ人間だった。北海道の農村に生まれた普通の人間だった。季節と共に農地を耕し、川や山で食料を獲って生きている、たくましい青年だった。青年は歩くのが好きだった。村のみんなが行かないような遠くの場所にまで歩いて行って、村に有益な情報をもたらした。はるか向こうの山の中には豊富な木の実があることや、尾根を越えたところに湖があってそこに魚がたくさん棲んでいることなどだ。
ある日いつものように青年が出かけようとすると、父親が青年を呼び止め次のように言った。「もし大きないびきが聞こえてきても、決して音の方へ行ってはいけないよ」青年は不思議に思い、「大きないびきとは何のことですか?」と尋ねた。「村に伝わる伝説なのだ。父さんも実際に聞いたことはないが、大きないびきにだけは注意しなさい」とだけ言った。
その日の夕方、そろそろ家に帰ろうとしたとき、地響きのような音がした。それは大きないびきに聞こえるような気がした。音がする方を探すと、丘の上から鳴っているようだった。青年は迷ったが、好奇心に負けて丘の上へ行ってみた。自分の好奇心に任せて歩いていくのが散歩の醍醐味なのだから。上に行けば行くほどどんどん音は大きくなっていった。
丘の上は真っ平な場所だった。その中央に四角い岩が一つ置いてあった。その岩に近づくと、岩の上には料理が置いてあった。漆塗りの黒いお盆の上にお椀が五つ並べてある。湯気が立ち上り良い香りがしていた。ちょうど歩き回った後だったから、青年は腹が減っていた。しかも青年が見たこともない豪華な料理ばかりだった。いつも蕗やぜんまいを食べているのだ。こんな美味そうな料理を前にして我慢することなど到底できそうにない。しかも周りには誰もいない。
青年は一口だけ料理を食べた。右端のお椀に盛り付けられた甘い芋煮だった。やはり味わったことのない美味さを感じる。もう我慢できなかった。青年は貪るように他の料理にも手を出す。一瞬でお盆に乗った料理を平らげてしまう。料理を食べ終えた時、さっきまで聞こえていた大きないびきはピタリと止まる。いびきだけではない。風や鳥の音もピタリと止まる。全くの無音の世界が青年を包み込む。無音の世界の中で、だんだんと青年は眠くなってくる。青年は岩の上に突っ伏すように目を閉じた。
気が付くと、青年は空の上を飛んでいた。いつもは大きく感じた山や川がはるか下に見えた。
「気が付いたかい?新人くん」声の方に目をやると、天使らしき者が飛んでいた。羽根の生えた綺麗な顔をした人間が横を飛んでいたのだ。
「ダメだよ、勝手に神様のご飯を食べちゃ。あれは大事なお供え物だったんだから。罰として君はこれから蛇になってもらう。蛇としてこの世界で生きていくんだ」
「蛇?」青年は自分の身体を見回しても、ちゃんと手も足もあった。
「まだ蛇になっていないよ。大丈夫、すぐに変えてあげるから」天使は笑いながら指をくるくると回した。すると青年は一瞬で蛇に変わってしまう。一匹の真っ白な蛇になって空を飛んでいた。
「ちゃんと家も用意してあげたよ。あそこにこれから住むんだ」天使は斜め下を指し示す。蛇はその方向に落ちて行った。川にそびえたつ一つの岩、その中が蛇に用意された家だった。薄暗い岩の中に蛇は落とされる。もう蛇は飛ぶことはできなかった。
「どうすれば人間に戻してもらえるのでしょうか?」蛇は岩の中から、空を飛ぶ天使に向かって叫んだ。
「たくさんの神が参加する舞踏会があるんだ。その舞踏会に参加して、どこかの神様にそうお願いするしかないね。そしたら人間に戻してもらえるかもしれない。でも当分の間は舞踏会に参加するのは無理だね。君は罰を背負ってしまったからね。罪を許してもらえるまで、しっかり蛇としての務めを果たすんだ。務めを果たしていれば、舞踏会に参加するきっかけが与えられる」天使は空から蛇に言った。
「その舞踏会に参加するためのきっかけとは何なのでしょうか?」蛇はまた叫ぶ。
天使は少し黙ってから言った。
「二つの赤い星が地上に降りたときだよ」
蛇は岩から夜空を見上げる。北の空に二つの赤い星が並ぶように輝いている。その赤い星を眺めながら、青年は蛇として生きていくしかなかった。
蛇のカップの中がまた空になっていた。七海はそこにお茶を注ぐ。自分のカップにも新しいお茶を注いだ。また湯気が視界の前を通っていく。
「あと一つなんだ。あと一つ赤い星の願いが叶えられれば、舞踏会に参加できるんだ。やっとここまで来た。千年もこの岩の中で、蛇として務めを果たしてきたんだ」蛇は下を向いたまま言った。
「今このとき誰かが赤い星を手にしました。それをここに持ってくればいいんですね?」七海がそう言うと、蛇は顔を上げて頷いた。
「小さな赤く光る石だよ。赤い宝石と言った方がいいね。とても綺麗に輝いているよ。見ればすぐに分かる。あんな石はこの世界のどこにもないからね。前に男の願いを叶えてあげたとき、ワイはそれを目にしたからよく分かる。その赤い宝石を使って男の願いを叶えた時、北の空に輝いていた二つの赤い星は一つになっていた」その男とは、カタリーナ王女が七海に語ったポルトガルの石工職人のことだった。
「見つけるしかなさそうですね。その赤い宝石をここに持ってきて、あなたにポルトガルを救ってもらわなくてはなりません。そして、あなたを舞踏会へ連れていく」七海は静かに、だけれども情熱的に言った。その情熱を受け取るように、蛇は温かなカップを両手で包み込んだ。
しばらくして七海と蛇は同じタイミングでお茶を飲み干した。七海が持ってきたお菓子も無くなりかけていた。お茶会はお開きの時間だった。
「お嬢さんはどこから来たんだい?そろそろ日が暮れるから、そこまで送ってあげるよ」
七海が答えようとすると、蛇は言葉を続ける。「言葉にしなくていい。頭に思い浮かべるんだ。お嬢さんがこの国で帰りたい場所を。今夜眠りたい場所を」
そう言われて七海が思いつくのは一つしかなかった。この国に来て最初に休むことができた場所。見知らぬ私にとても親切にしてくれた場所。その場所を七海は強く思い描く。
「蛇になってから、こんな不思議な力ばかり使えるようになった。でも君たち人間が羨ましいんだ。魔法のような力なんて要らないから、君のように自分の足で歩きたい。自分の好奇心のままに大地を歩きたいんだ」目を閉じる七海の横で、蛇は話しながら右手を回し始めた。
「さようなら、ポルトガルから来たお嬢さん。赤い宝石を待っているよ」そう言って蛇は右手をもっと速く回し始める。七海は目を閉じたまま、帰りたい場所を思い描いていた。そのまま七海の意識は遠のき、身体ごとどこか遠くに行ってしまった。
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