第十四章 ペンションにて

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第十四章 ペンションにて

 美月は車の中で、赤い宝石を用意していた専用の箱に入れた。黄金の真鍮で象られた特注の箱だ。そこに入れると輝きが一段と増したように見えた。ずっと見ていたくなる。これまで見てきた宝石の中で…比較することもおこがましい。神秘的な輝きとはまさにこのことなのだ。美月は赤い宝石をしばらくずっと見ていた。 「それで、どこに行きますか?もう暗くなってきたし、そろそろホテルに行かないと。チャックインの時間も過ぎているので」遥香は助手席の美月に尋ねる。その問いかけは美月には全く届いていない。何の反応もないので、「美月さん?…美月さん!」と大きな声をかける。美月はハッと我に返る。 「ごめんなさい、何か言った?」 「そろそろ今日泊まる予定のホテルに行ってもいいですか?」 「あの…」酒井が後部座席からある提案をする。「もしよかったら、僕が泊っているペンションに行きませんか?もしかしたら、七海さん戻ってきているかもしれないので」 「七海さんもそこに泊っているの?」美月は尋ねる。 「泊まってはないんですが、今日ペンションで朝ごはんを食べたので場所は知っています。別の宿を予約している感じもなかったので、もしかしたら戻ってきているかもしれません」 「じゃあ行くしかなさそうね」美月が言った。 「明日じゃダメですかね?今日はもうホテルでぐっすり眠って、明日の朝ペンションに行って七海さんに会うというのは?」遥香が言う。チェックイン時間を気にしているのもあるが、美月がケガをして疲れているように思った上での発言だった。 「遥香、私のことを心配してくれているのはとてもありがたい、感謝している。けどね、私たちが七海さんに会う理由は二つある。スーツケースを譲ってもらうことと、この羅針盤を返すこと。もちろん明日でもいいかもしれない、七海さんが普通の人ならば。でも、今日旭川駅であなたも経験したように、七海さんはどこに行くか分からない人。今夜ペンションに戻ってきたとしても、明日にはどこかに消えてしまっているかもしれない。もう酒井さんすら分からない場所に行ってしまうかもしれない。そして…」美月は急に話すのをやめる。 「そして…何ですか?」遥香は言葉を促す。 「七海さんに訊きたいこと、話したいことがたくさんあるの」美月は下を向いて言った。目線の先には羅針盤と宝石箱があった。不思議なことがたくさん起こった。 「そうですね、私もポルトガルのこととか教えてほしいので、今からペンションに行きましょう」後でホテルに電話しなくてはと遥香は思った。 「今の道を右です」酒井がぼそっと言った。 「え?」遥香は驚く。ホテルに向かうために左に曲がったところだった。 「ペンションは今の道を右です」酒井は少しはっきり言った。 「そういうことですね!」遥香はUターンできる場所を探した。こちとら振り回されるのには慣れてますから!と心の中で叫んだ。  目を開けたとき、七海はベッドの上にいた。ふかふかの白い布団の上で仰向けになっている。干したての太陽のにおいがする。そして木の香りがする。懐かしい香りだ。これはどこで嗅いだ香りだろう。七海は体を起こして周りを見る。窓の外は暗くなっている。自分が今どこにいるかすぐに分かる。朝ごはんを食べたペンションだ。木の香りがした。その香りが私を落ち着かせてくれたんだ。  七海はベッドから出る。服はそのままで、靴とスーツケースはベッドの横に置いてある。あの白い蛇がここまで運んでくれたのだろう。私がここで寝ていることを女主人は知っているのだろうか。七海は部屋を出て女主人に挨拶に行く。  部屋の外は廊下になっている。目の前に降り階段があるから、二階にいることがわかる。下からは明かりと音が漏れている。人がいる気配がした。七海が一階に行くと、女主人が晩御飯の支度をしているところだった。 「ああ、目が覚めたのかい?晩御飯もう少しかかりそうだから、シャワーでも浴びてきなよ」七海を見ると女主人は言った。そしてニカッと笑った。今朝と変わらない笑顔を七海に見せた。 「私、どうやってここまで帰ってきたんでしょうか?」 「あんた覚えてないの?まあ眠そうだったから仕方ないか。フラフラしながら歩いてきて、部屋に案内したらすぐに寝ちゃったんだよ」  歩いてきた?全く覚えていない。「あの、今夜ここに泊めてもらえませんか?お金払いますから」ポルトガル銀貨でよいだろうか?七海はそう思いながら尋ねる。 「もちろんいいよ。部屋ガラガラだから好きに使いな。さっき連絡したら、もうすぐタカマサも帰ってくるって言ってたから、あいつ帰ってきたら晩御飯にしよう。あ、タカマサって甥のことね、今日一緒に出掛けたでしょ」 「はい」七海は酒井とはぐれたことを言おうとしたが、女主人は気にしていないようだったので話すのをやめる。「私、シャワー浴びてきます」七海は部屋に戻る。七海が生きていた十七世紀のポルトガルやイギリスでも入浴という習慣はあった。入浴せずに体を拭くだけという人も多かったが、七海自身は入浴が好きだった。「病気にならないため、綺麗でいるためには入浴が必要なのです」知り合いのユダヤ人がよくそう言っていたのを思い出す。  新しい着替えをスーツケースから出す。脱衣所で服を脱ぐ。ところどころ汚れていて汗の匂いがした。今日一日いろんなことがあって、たくさん移動した証だった。七海はシャワーを出す。温かなお湯を浴びて、その証を洗い落とすことに集中した。  七海がお風呂に入っている頃、美月たちを乗せた車がペンションに到着する。一人で帰ってくると思っていた酒井が、女性二人を連れて帰ってきた。もちろん女主人は驚いた。しかし美月と遥香がビジネスライクな挨拶をすると、女主人は安心した。 「突然お邪魔してすいません、これつまらない物ですが」遥香が手土産を手渡す。庶民がなかなか手を出せない少し高級なお菓子だった。こういったところも美月は手を抜かない。 「もうすぐ晩御飯ができるのですが、食べていかれます?」女主人は完全に心を許した。 「おばさん、七海さんはどこに?」酒井が口を挟む。さっき電話で七海が帰ってきていることを知っていた。 「ああ、今お風呂だよ。あの子が下りてきたら、みんなで晩御飯にしよう」 「ぜひ、いただきます!もうお腹ペコペコで!良い香りがしていますが、今日はどんなメニューですか?」美月は満面の笑みで女主人に言った。七海に会えるのだ、目的遂行のためなら、良い顔ぐらい苦もなくやってみせる。 「今日は夏野菜のカレーにしようと思ってたんだよ。でもせっかくのお客様だし、ジンギスカンバーベキューにしよう!羊の肉は食べられるかい?」 「はい、大好きです!」美月は肉なら何でも大好きだった。美月の横で遥香は嫌そうな顔を必死で隠していた。あまりお肉好きじゃないんだけどな~あなた昨日の夜もしゃぶしゃぶ食べてたじゃん!というか今日のお昼もステーキ食べてなかったっけ!心の中で美月にツッコミを入れる。そんなことはつゆ知らず、美月はニコニコしていた。 「よし、そうこなくっちゃ!カレーは明日にしよう!良い羊肉を分けてもらったところなんだよ」女主人はバーベキューの用意をした。  七海はタオルで体を拭き、持ってきた部屋着を身に着ける。リネンで作られたウェストを絞らないゆるやかな白いワンピースだった。迷ったが、膝の上までの長さがある薄手の靴下もはく。濃い緑色で花の刺繍が施してある。いつもなら、これに加えて膝の下にリボンを結ぶ。でも今日は結ばないことに決める。ここはポルトガルではないのだ。東の果ての国なのだ。着替えを済ませた七海は部屋を出る。階段の下では賑やかな声がしていた。  階段を下りていくと、四人が一斉に七海を見た。四人はちょうど談笑しながら七海を待っているところだった。テーブルの上には鉄板と、まだ焼かれていない羊肉と野菜が並べられている。 「今、あんたのこと話していたところだよ。さあ、ご飯にしよう。今日はジンギスカンだ」女主人が開口一番に七海を手招きする。 「はじめまして七海さん、山岡美月と言います」美月がその場で立って自己紹介をすると、遥香も同じように挨拶をした。「あなたに直接渡したいものがあって、お邪魔しています」と最後に付け加えた。 「はじめまして、七海と申します」七海もその場で深々とお辞儀をした。七海は美月に会っていることに気づいていなかった。一瞬のことで、スーツケースに触れようとした女性の顔を記憶していなかった。 「さあ固い話は後にして、先にご飯にしよう」女主人は七海たちを座らせ、鉄板に火をつけた。羊肉が焼ける香ばしい匂いが部屋中を包んだ。  晩御飯が終わった後、女主人は町内会の集まりがあると言ってどこかに出かけてしまう。七海、美月、遥香、酒井の四人だけになると、さっきまでの団欒が嘘のように静かになる。それぞれ下を向いてお茶を飲んでいた。 「それで、私に渡したいものとは何でしょうか?」七海が口を開いた。 「そうだった。これです」美月は鞄から羅針盤を出す。「旭川駅のベンチの下にこれが落ちていました」美月がそう言うと、「あなたのことを追いかけたんですけど、見失ってしまったんです」と遥香が付け加えた。その後で自分と知り合い、ここに案内したと酒井は言った。 「わざわざ持ってきて頂いてありがとうございます。とても感謝しています。これがないと家に帰れないので」と七海は座ったまま深々とお辞儀をする。羅針盤がなくなり、ポルトガルに一生帰れないかもしれないとまで思っていたのだ。 「変なことを言うかもしれないけど、七海さんは十七世紀のポルトガルから来たの?正確には西暦1600年ごろのポルトガルから」美月が身を乗り出して尋ねる。  七海は少し迷ってから、「はい、私は西暦1659年のポルトガルからやってきました」と言った。 それを聞いて美月は確信する。私が塔の上から見た海の風景は十七世紀のポルトガルだったのだ。「あなたはこの羅針盤を使って、この日本にやってきた。三百年以上の時を越えて。そういうことよね?」美月の問いかけに、七海は黙って頷いた。  美月にはもっと尋ねたいことがある。塔のことや呪文のことだ。でも、それは遥香たちの前で話すわけにはいかない。これは七海さんと二人だけの秘密にしておく必要があるような気がした。論理的な根拠はない。ただ、そんな気がするだけだ。 「遥香と酒井さん、少し七海さんと二人にしてくれるかしら?」美月が静かにそう言うと、遥香は渋々立ち上がる。酒井は遥香を自分の部屋に案内する。彼らが二階に上がるのを見届けてから、美月は話の続きに取り掛かった。  美月はじっと七海を見つめる。その鋭い眼差しに七海は少し動揺して唇を噛む。 「七海さん、私はあなたの羅針盤を拾ったとき、ある言葉を唱えたの。それは大切な友人から教えられた言葉だった。その言葉を唱えたとき、私は海辺の塔の中にいた。さっきまで旭川駅のベンチにいたのに不思議よね。その塔には人懐っこい青年がいたわ。日本語が上手くてガロットという飲み物をご馳走してもらった。そして青年は私にこう言ったの。 『ここはポルトガルだよ。ポルトガルのロカ岬。ユーラシア大陸で最も西にある岬だよ。そこに建てられたヘピュタの塔の中にいる』と。  私がその言葉に驚いていると、彼は言ったの。 『その羅針盤には見覚えがある。ちょうど昨日ここに来た女の子が持っていたものだよ。僕がお菓子をあげた子だ』その女の子って、あなたのことよね?七海さん?」  七海は黙って頷く。その青年のことはちゃんと覚えている。お菓子をくれて、いってらっしゃいと言ってくれた。 「私は羅針盤を使って、同じ言葉を唱えた。そしたら旭川駅のベンチに戻って来られた。七海さんが日本に何をしに来たのかは、酒井さんから聞いているわ。私はそれに協力したいと思っている。ポルトガルをスペインから救ってもらいたいと思っている。だから…」美月はそこで言葉を詰まらせる。「だから、一つだけ教えてほしい。あなたは何と唱えたの?羅針盤を持って唱えた言葉を教えて。私が唱えた言葉と同じなのかを知りたいだけ」  七海はそれを聞くと、黙って立ち上がる。そして美月のすぐ隣まで歩いていく。 「耳を出してもらえますか?呪文が聞こえると、羅針盤が反応してしまうから」七海がそう言うと、美月は髪をかき上げる。白くて綺麗な耳が姿を現す。 「空気が変わった。そのとき自身の心に従うべきだ。そこに進むべき道があるから」七海はそっと耳元でささやく。  美月は目を閉じてそれを聞いている。目を閉じたまま、七海に尋ねる。「あなたはそれを誰から教わったの?」 「父から教わりました。私の一族は先祖代々この言葉が受け継がれているのです」  美月は赤松のことを思い出していた。大学のベンチに座り本を読む赤松のことを。 「私からあなたへの贈り物よ」赤松はそう言って、この言葉と共にあの地図を美月に渡したのだ。
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