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第十七章 熊について
同じ頃、ペンションの裏山では、熊が自分の過去について語り始めた。仮面男と二人で焚火を囲みながら。自分がなぜ言葉を話せるのか、どうして舞踏会や星のことを知っているのか、それらの疑問に答えるように、静かに語り始めた。
蛇同様、熊も元々は人間であった。一人の青年であった。その青年は陸軍士官学校本科第二十二期を明治四十三年に卒業した。その後、見習い士官として北海道にある師団に赴任する。日本の北側の防御を担った陸軍第七師団である。その中で旭川の陸軍施設で青年は業務を行った。
旭川には大きな川が流れている。その川の北側に陸軍施設が数多く立ち並んでいる。そして川の南側に一般の人々が暮らしている。北と南をつなぐのは一本の巨大な鉄橋である。その鉄橋が陸軍と世俗との懸け橋であった。
鉄橋の下の川沿いには公園や料亭が作られた。目的は陸軍の心と体を癒すことである。陸軍の青年たちにとって、そこは若い女性との貴重な出会いの場でもあった。休みの日には、多くの青年たちが川沿いに出かけ、将来の結婚相手探しに行ったのである。熊も毎週のように仲間たちと川沿いに出かけた。
ある日、熊も含めて三人で公園に出かけた。そこで運よく三人の女性と知り合った。何人かに分かれて手漕ぎボートに乗り、他愛のない話をした。熊は最後に一人の女性とボートに乗ることになった。二人きりで池の真ん中あたりに来た時、女性が話し始める。
「私、そこの料亭の娘なの。もしよかったら、この後料亭に来て。あなたと美味しい料理が食べたいわ」この近くの料亭はどこも高級だった。陸軍の中でも上官でなければ行くことができない。士官学校を出たばかりの熊にはもちろん無理だ。
「ありがたいけど、俺にはそんな金はないよ」と熊はすぐに断りを入れる。
「あら、あなた一人分くらい何とでもなるわ。だって料亭のオーナーの娘なんですもの」女性は得意気に言った。「そういうことなら、お邪魔するよ」と熊は言った。
辺りが暗くなってくると、熊と女性は料亭に向かう。二階にある小さな部屋に通される。目が細かい畳が敷かれ、襖には鯉の絵が描かれている。窓からは庭園が見えた。石で作られた山のようなものが見える。通いなれた食堂とは全く違う。部屋全体から高級な香りがした。もちろん料理も申し分なかった。女中に最高の料理と酒を運ばせ、女性は上機嫌だった。頬を赤らめて、大きな笑い声を上げていた。熊も高級な雰囲気を心から楽しんでいた。
「ねえ、この部屋暑くない?」テーブルの上の料理も酒も尽きる頃、女性が言った。
「うん、少し暑いかもね」冷房もない時代だ。その夏の夜は湿度が高かった。
「涼しいところに行きましょう。とても良いところ、私知っているの。そこなら涼しいし、誰も来ないわ」とトロンとした目で女性は言った。
熊はただ頷いて立ち上がる。女性は熊に体を摺り寄せながら歩いた。
「あなたの体はとても大きいのね。まるで熊みたいだわ」と笑いながら冗談を言った。「そりゃ鍛えてるからね」とまだ人間の熊は返した。若い女の温もりが服の上から伝わってくる。そして良い香りもする。もちろん熊はドキドキしていた。理性で本能を抑え込んで、姿勢を正して真っ直ぐ廊下を歩いた。
熊と女性は庭園に出る。さっき部屋から見えた石で作られた山の前に来る。
「この石を横にずらしてみて」と女性が言う。熊が言われた通りにすると、地下に続く階段が現れた。下は真っ暗だった。「もちろん、ここを下りるんだろうね」と熊が言うと、当たり前でしょと女性が囁いた。熊はもう女性ではなく暗闇にドキドキしていた。
階段を下りると、大きな岩に囲まれたドーム状の部屋に出る。部屋の真ん中には大きな水たまりがあった。その水たまりにポツンポツンと水滴が落ちてきている。その水滴は天井の穴から出てきているようだ。ポツン、ポツン、ポツン…水滴は一定のリズムを刻みながら落ちてきていた。
「ここは一体、何のための部屋なのかな?」と熊が尋ねる。
「知らないわ。料亭の人も私以外こんな部屋があることも知らないと思う。一体だれが何のために作ったのかも全くわからない。でも、とても涼しいでしょ?」と女性は微笑む。
「まあ、確かにね」自然に出来上がった部屋には見えなかった。水たまりは綺麗な円を描いていて、ドーム状の天井も正確に弧を描いている。人工的に誰かが作ったとしか思えない。高度な技術のある、とても几帳面な職人が作り上げた彫刻のようだった。
「ねえ、のどが渇かない?」熊が部屋に見惚れていると、女性が尋ねる。
「言われてみれば、そうだね」のどが猛烈に水分を欲していることに熊は気づく。口の中には一滴の唾も残っていない。まるで熱風の吹く砂漠にいるようだった。そして目の前の水たまりは命をつなぐオアシスに見えてきた。
「もう我慢できない」熊はそう言って水たまりに向かう。女性の手も振りほどいた。両手で水を掬い、豪快に口の中に入れる。とても甘い味がする。それは脳に一撃を食らうほどの甘さだった。熊は口を直接水たまりの中に入れて、水を思いっきり吸い込む。このために今まで肺活量を鍛えてきたのだと悟った。飲めば飲むほど体は水を求めた。そして脳が麻痺していった。もはや理性など働かない。熊は本能のままに水を吸い込み続けた。
気づくと熊は暗闇の中にいた。自分の周りには何もなかった。水たまりも女性もいない。ただの黒だけだった。そして上から光が降ってくる。光は熊の前に来ると、天使の姿に変わる。
「全く、君は何てことをしてくれたんだ。この水は飲んじゃダメだよ。神聖なものなんだから、君たち人間が口にしてはいけないの」と天使は熊に言った。
この水は一体?…と熊は心の中で唱える。なぜか熊は口をきけなかった。
「この水は、時の流れを管理するためのものなの。君たちが生きる地上世界の時間というものがあるのは、全てこの水のおかげ。朝がやってくるのも、夜がやってくるのも、地平線に一番星が見えたら川が氾濫するのも、君たちが年を取るのも、すべてこの水のおかげなの。だから君がこの水を飲んだら、時の流れが阻害されちゃうでしょ」天使は目を閉じて首を振った。
「今、天上世界では大慌てで時の流れを修復している。地上世界でもバスや電車が事故で遅れたら大混乱するでしょ?それと同じなの。まあ、同じ一日を何回か過ごさなくちゃいけない人が何人かは出てくるだろうね。その程度で済むように、天上世界が頑張っているんだから、もう余計なことしないでね」
熊はただ頷いた。何度も頷いた。心から反省した。水の秘密を知らなかったのだと、もう二度としないと必死に唱えた。
「反省しているのは分かるけど、君には罰を受けてもらうよ。それが天上世界の掟だからね。しばらくここで頭を冷やすんだね」天使は右腕をクルクルと回した。
熊は自分が地面に落ちたことを悟る。周りは木や草が生い茂っている。そして頭上には夜空が広がっていた。
「元の生活に戻りたければ、天上世界の舞踏会に来るんだ。そして上手く踊るんだ。そうすれば君の罪は許してもらえるはずさ」
そして天使は舞踏会に参加するための条件を話してくれる。北東の空に二つ星が並んでいる。ほら、あそこに赤い星と緑の星が並んでいるだろ。赤い星が緑に変わった時、君は舞踏会に参加できる。北東に緑の星が二つ輝いたら、天上世界が君を迎えにいくよ。それまで上手く踊る練習をしておくんだ。天使はそう言って、天上に帰って行った。
その後、熊は悟る。自分が人間ではなく大きなヒグマになってしまったことを。そしてこの山から出られないことを。でも言葉を話すことはできることを。木の実や動物を食べて、山の中で必死に生きた。夜になれば北東を見上げて、赤い星が緑に変わる瞬間を待った。
そうして百年ほど経った頃、山の中に赤松が現れる。赤松が望遠鏡を持って星を眺めたあの日がやってきた。望遠鏡を見る赤松の背中を見た瞬間、熊の頭の中で誰かが話しかけてきた。
「あの二つの星の下には、宝石が眠っている。宝石を見つけられたら、赤い星は緑に変わる。その宝石をあの女に見つけてもらえばいい。女は宝石が大好きだから、きっと見つけてくれるはずだ」そう言って声は聞こえなくなる。
誰の声だろう。わからない。あの天使の声じゃない。でも、やっと判明した舞踏会に参加するための手がかりだ。これを逃すわけにはいかない。そうして熊は赤松の前に現れる。熊は赤松に宝石のことを教える。そして赤松が美月に宝石のことを教え、美月が宝石を手に入れた。
だからこそ、今このとき北東の空には緑の星が二つ並んでいる。
「やっぱり女性というものは、素晴らしい生き物だ」と熊はニヤリと微笑んだ。
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