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第十九章 裏山の洞窟
遥香は美月たちを送り出した後、力が抜けたようにベッドに入り数時間ほど眠った。美月の近くにいると、否応なしにあのパワーをもらうことになる。それは前に進むためのエネルギーになる一方で、他の人といるときの何倍も疲労が蓄積する。美月から離れると、それを実感する。特に頭の中は膜が張ったようになり、何も考えることができなくなる。数時間ぐっすり眠ることで、頭がスッキリした。ベッドから起き上がり伸びをして、髪の毛を整えると一階に下りた。
一階のダイニングテーブルでは、酒井がノートパソコンで何やら作業をしていた。遥香はその斜め右の位置に座った。女主人はどこかに出かけており、台所はがらんと静かだった。
「よく眠れました?」と酒井は作業を止め遥香にコーヒーを注ぎながら言った。
「はい、おかげ様でスッキリしました。何の作業をしていたんですか?」
「研究室のレポートです。関連論文を一つ読んで内容をまとめなきゃいけない。夏休みの宿題ってやつです」
「何だかとっても難しそう。そして面倒くさそう」遥香は顔をしかめて冗談っぽく言う。
「とっても、全くもって、こんなことから早く解放されたい」酒井も顔をしかめて冗談っぽく言う。そして数行だけ素早くタイピングするとパソコンを閉じた。コーヒーを一口飲んで息を吐く。二人の間に少し静寂が流れる。
「大学院でどんな研究をしているんですか?」遥香がその静寂に別れを告げる。
酒井は何と答えればいいか少し思案して、「ワルツ」と一言答えた。当然遥香は「ワルツ?」と聞き返す。「はい、二人の男女が手を取り合ってクルクル回りながら踊るワルツです」と酒井は言った。
「でも、酒井さんは理系でしたよね?」
「はい、物理の研究です」酒井は恥ずかしそうに微笑む。「ワルツは比喩だと思ってください。想像してみてください。二人の男女がワルツを踊っている。男も女も初めは一人で回っている。回りながらだんだん二人は近づく。そしてある程度距離が縮まると、二人は手を取り合う。そして二人で同じステップを踏みながら回り始める。さっきまで一人だったのが、二人で回り始める。何だか二人で一つになったように。ここまでは想像できますか?」
「もちろん。二人の男女が一つになって回り始める。とても楽しそう」
「同じことが目に見えないような小さな物質でも起こるんです」
「ああ、原子と電子とか言うやつですね」遥香は高校で習ったことを思い出す。
「そう、まさにそれです。男と女みたいに物質にも性別みたいなのがあります。物理ではそれを「+(プラス)」と「-(マイナス)」と定義していますが」遥香は頷いているのを見て酒井は言葉を続ける。「ある条件を与えると、男の物質と女の物質はそれぞれクルクル回り始めます。そしてだんだん惹かれ合うように二つの物質は一つになる。その物理現象について僕は研究しています。条件をいろいろ変えてみたり、二つの物質が一つになる時間を測ってみたり、物理的にはいろいろ計測することがあるんです。シンプルだけどとても奥が深い。それはどこでも起こっていることだから。今この瞬間、僕たちの近くでも、はるか遠くの宇宙でも」
遥香は目を閉じて酒井の言葉の余韻に浸る。その間頭の中ではワルツが流れていた。「面白いです。とてもわかりやすかった」と遥香は目を開けて言った。「二つの物質は一つになった後どうなるのですか?人間の男女のようにバラバラになるのでしょうか?また来週ね、なんて言いながらそれぞれの帰路につくんですか?」
思いがけない質問に酒井は遥香の顔を見る。二人は少し見つめ合う。酒井はそっと視線を外して「物質は光になって二つとも消えてしまいます」と答えた。
二つが一つになり、やがて光になって消えていく。その流れを遥香は頭の中で思い描く。そして「儚くて美しい」と静かに呟いて窓の方を見た。窓からは太陽の光が差し込んでいる。「けど、消えてしまうのは少し寂しいですね」と付け加えた。
「同じ方向に回転する男女と、逆の方向に回転する男女だと、どちらの方が一つになって消えるのが早いと思いますか?」酒井はすかさず質問する。
「そうですね。同じ方向だとなかなか距離が縮まらなさそう」と遥香は酒井の方に顔を戻して答える。
「まさにその通りです。実験では平均千倍以上の時間がかかったんです。同じ方向に回転しているとなかなか出会えない。そして消えない」と酒井は言う。「遥香さん、相手と同じ方向に回ればいいんです。そしたら、より長く相手とワルツを踊っていられます」
「とても楽しそう」と遥香は笑った。そしてコーヒーを一口飲んだ。
遥香はゆっくりコーヒーを飲み終えると、台所でマグカップを洗い指定された食器棚に戻した。他のマグカップと当たるカチャンという音がした。そして「少しこのあたりを散歩してきます。良い天気だし気持ちよさそうだから」と酒井に言った。酒井は「お気をつけて」と言って、再びパソコンを開いた。
遥香は玄関を出ると、ペンションの裏側の方向に歩を進めた。何本かの木を抜けると、数百メートル先に小高い山が見えた。その山に導かれるように近づいていく。かつて赤松がそうだったように。そして仮面男と熊が今朝まで過ごしたあの山に遥香はぐんぐん近づいた。
山の斜面を登ろうとしたとき、遥香の目の前を一枚の紅葉が通り過ぎた。今の季節は夏だ。北海道の内陸とはいえ、日中は半袖で過ごせる。それに合わせて周りの木々は青々としている。その中で季節外れの紅葉が空中を漂っていた。その紅葉を見た時、遥香は実家の部屋から見えた一本の木のことを思い出す。山岡銀行を経営する美月さんのことを知るきっかけをくれたあの赤い葉のことを思い出す。だから遥香はその紅葉に引き寄せられる。紅葉はフワフワと山の反対側へと飛んでいく。斜面を登るのをやめて、遥香は紅葉の後を追いかける。
山の反対側に来ると、斜面に穴が空いているのが見えた。大人が一人入れるぐらいの大きさだ。ギリギリ洞窟と形容されるものだろう。その穴に向かって風が吹いている。その風に乗って紅葉は穴の中に入って行った。中は真っ暗だ。遥香は入口のところで中に入るのを躊躇する。これ以上進むのは危ないと遥香の本能が判断する。それと同時に酒井の言葉が甦る。「同じ方向に回転していると、なかなか出会えない。そして消えない」美月さんならこんな時どうする?さあ早く中に入りましょうとすぐに言うだろう。私はいつも冷や冷やして心配するんだ。今回の旅だってその連続だった。今ごろ美月さんはどこか暗闇に入り込んで、そこに光を照らしているに違いない。私も美月さんと同じ方向に進みたい、遥香はそう決心した。いつまでも美月さんの傍で生きていたいから。遥香は洞窟の中に足を踏み入れた。
壁伝いに少しずつ中に入っていく。やがて暗闇に目が慣れてくる。ごつごつした岩は端に避けられ、ちゃんと人が通れる道のようになっている。ということは、ここは人が使っていたのだろうか?一体どんな人が?何のために?それはいつ頃のことだろうか?様々な疑問を頭に抱きながら、遥香はどんどん中に入った。
やがて道は終わり、遥香は部屋らしき場所に行きついた。さっきまでの暗闇とは違う。どこからか淡い光が届いている。その光のおかげで部屋は茶色い岩でできていることがわかる。天上も足元も壁も全て、茶色い岩が幾重も組み合わされている。遥香は部屋の中央付近まで進み、不思議な空間に身をゆだねた。
「やあ、久しぶりじゃないか」と声が聞こえた。後ろを振り返ると、天井に一匹のコウモリがぶら下がり、遥香を見下ろしていた。黒光りの体が茶色の岩によく映える。両翼で体を包みながら、つぶらな瞳を遥香に向けている。小さな口元はニヤリと左上に歪んでいた。
「こ、こんにちは」と遥香は何とか挨拶をした。声が裏返らないように注意しながら。
「うん~よく見ると違う女か。まあいいや、そろそろ新しい絵も見たくなってきたところだし」コウモリは目を見開いて遥香を凝視した。「お前、絵得意か?」
「え、あ、まあ絵は好きです」なんで急にコウモリが?ともかくここから出ないと。遥香は部屋の外に出ようとする。
「おっと、このまま帰すわけにはいかねえよ」コウモリがそう言うと、急に部屋が揺れ始めた。そしてドカンと大きな音がした。音の方を見ると、部屋の入口を大きな岩が塞いでいた。遥香はこの茶色い部屋に閉じ込められてしまった。
「とりあえずお前の得意な絵を描け。そしたらここから出してやるよ」そう言ってコウモリは翼を広げて飛び立った。その瞬間、真っ暗になる。誰かがスイッチを切ったように。何も見えない何も聞こえない暗闇の中に遥香は閉じ込められた。
慌てるな!冷静になれ!と心の中で唱える。いつもクールな美月さんのことを頭に思い描いた。「私が言いたいのはね、私にはあなたが必要ってこと。そしてあなたが困っていたら全力であなたを助けるわ。約束する。だから、私のことを助けてくれないかな?」かつて美月に言われた言葉が甦る。「必ず美月さんのこと助けます」と言おうとして遥香は意識を失った。
しばらくして遥香は意識を取り戻す。目を開けると、そこはもう茶色い岩の部屋ではなかった。コウモリもどこにもいない。見渡す限り真っ白な部屋だった。天上も足元も壁も全て真っ白だった。
起き上がると、目の前にスケッチブックが置いてある。遥香が絵を描くとき、いつも使っているLサイズのクッロッキー帳。その横には七十二色のペンが置いてある。これも遥香の使い慣れたコピックの七十二色セットだった。宇都宮の実家にいた頃、いつも自室にこもってこれで絵を描いていた。そう思うと、実家の部屋と同じぐらいの広さのような気がしてくる。ただこの部屋は真っ白だ。窓も家具もない。
「これで絵を描けということかな」と遥香は言葉を発した。誰かに言ったわけではない。空白に投げかけた言葉。空白に投げた言葉はブーメランのように遥香の元に帰ってきた。その言葉に答えるように、遥香はペンを取りスケッチブックの一枚目を開く。
新品の懐かしい感触と匂いがした。小学五年生のときに宇都宮で友達ができず居場所を失った。自分の居場所を作り出すように絵を描き始めた。絵を描いているとき、私には居場所があった。部屋から出なくても、絵を描いてさえいれば。でも一枚の紅葉に導かれるように美月さんに出会った。美月さんは私が必要だと言ってくれた。この世界に革命を起こしましょうと言ってくれた。私は自分の部屋の中でしか居場所を作れなかった。美月さんのおかげで、もっと広い外の世界に居場所を作れたんだ。
遥香は夢中になって一枚の絵を描き上げる。一本の大きな木が中央に書いてある。その木は赤や黄色に紅葉している。木の周りには赤色や黄色の葉が風に乗って舞い踊っている。それを見下ろすように、右上に大きな満月を描く。月の光は地上に降り注ぎ、木も葉も空気でさえも照らしている。そして小さく左下に人影を描く。白いワンピースを着た髪の長い少女。少女は紅葉した木を見上げている。でも見上げるだけじゃない。一本の木に導かれるように、もっと遠くへ歩こうとしている。遠くへ遠くへ進もうとする意志を持っているように少女を描く。少女がどこに行っても月が見守ってくれている。どんな暗闇に入り込んでも、月の光が照らしてくれる。少女は勇気をもって前へ進む。そんな風景を一枚の絵にしたためる。七十二個の色を余すことなく使う。ただの赤や黄じゃない。何層にも色を重ねる。空気にも風にも光にも色を重ねていく。一方で少女には色はそこまで使わない。少女はこれから自分自身の色を見つけていくのだ。そんな意図を込める。
最後に遥香はふーっと息を吹きかける。自分の魂をそこに込める儀式だ。それで絵は完成する。カラフルさと力強さが同居する壮大な絵が完成する。絵の中に遥香の人生と意思が詰まっていた。さっきまでの弱弱しい遥香はもうそこにはいなかった。新しい絵と共に、新しい自分に遥香は変わっていた。
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