第二十一章 七海の舞踏会

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第二十一章 七海の舞踏会

 豪華な大広間での弦楽器協奏曲が終わりを迎え、光に再び照らされたとき、七海は画家のアトリエに立っていた。つんとした絵具の匂いが鼻をつく。七海から見て右側には大きな窓があり、そこから淡い太陽の光が入ってくる。左側の壁には何枚か絵が飾られている。完成しているのか未完成なのかはわからない。色がついているものとクロッキーのものが混在している。  そして七海の正面では、ある男がキャンバスに向かって絵を描いていた。黒いベレー帽を頭にのせ、茶色い縮れ毛が肩まで伸びている。体のサイズより大きめの黒い衣服を身に纏い、一心不乱にペンを動かしていた。ときどき男の青い目が七海をとらえる。七海の外側だけではなく、内側までも見通そうとする目つきだった。青い目でとらえた七海を、男はキャンバスに落とし込んでいく。この男は七海をモデルに絵を描いている最中だった。 七海は動こうとしたが、男の目つきがそれを阻む。一ミリも動かないでくれよ、今大事なときなんだから、という暗黙のメッセージがアトリエ全体を支配していた。その空気に七海は身を任せる。呼吸を最小限にして斜め下を見つめることに集中する。そこに七海のスーツケースがあった。スーツケースに刻まれた紋章に視線を向け続けた。  七海は絵のモデルになったことは一度もない。カタリーナ女王が絵のモデルをされていたのを近くで見たことがある。第三者的に見ていると、何時間もじっとしているのは辛そうだった。カタリーナ様が倒れてしまわれないか心配で、七海はソワソワしていた。今こうして自分が絵のモデルになってみると、画家と心の交流のようなものを感じる。それは温かい電流のようなもので、日々を暮らしの中では感じられない心地よさがある。辛さよりも、その心地よさが七海を満たしていた。  アトリエの中はしんと静まり返っていた。聞こえるのは画家のペンがこすれるサラサラとした音だけだ。しばらくその静けさが続いた後で、どこかで鳥の鳴き声が聞こえた。その鳴き声を合図にして、画家はペンを置き立ち上がった。 「一応完成したんだが、こっちに来て感想を言ってもらえないかな?あなたの率直な感想を聞かせてほしいんだ。自分で描いていると、この絵が良いのか悪いのか分からなくなってしまう。僕としてはもう十分な気がしているんだけどね」  画家の言葉を合図に、七海はポーズを崩す。少しだけ背中を前後に動かし、固まった筋肉を相手に悟られないようにほぐした。「七海と申します。どうぞよろしくお願いします」とお辞儀をして、画家の方に歩いていく。画家はその挨拶を無視して、コップに水を注いで飲んでいた。  くるりと体を振り返らせ、七海は絵と対峙する。そこには二の腕から頭までの女性が描かれている。体は横を向いて、顔だけをこちらに向けている。顔は光に照らされている。どこからかやってきた光は黒い瞳に吸い込まれる。光を携えた瞳で、女性はこちらを見つめる。七海はその瞳に吸い込まれそうになる。絵の中に行ってしまわないように、七海は両足を踏ん張った。そして女性の瞳から目線を逸らした。  その他の要素はとても写実性が高かった。七海の髪型や衣服や表情が忠実に再現されている。顔の影になっているところに、小さく左耳が描かれている。左耳にはシルバーのピアスが付けられている。七海がポルトガルから持ってきたもので、銀線細工が細かいリーフ型のピアスだ。その細かい銀線細工まで忠実に再現されていた。  その写実性とは対照的に、女性の背景は真っ黒だった。漆黒の闇の前に女性は佇んでいる。その闇の中にこれから入って行こうとしているかのようだ。または、絵を見る者を闇の中に誘っているようにも見えた。光を携えた瞳で闇の中へ連れて行こうとしている。七海はできるだけその瞳を見ないよう努める。私はそちら側へ行くことはできないのだと、心の中で絵の女性に訴えた。  七海は画家の方へ向き直り、「大変すばらしいと思います。絵の構図も写実性もお見事です。そして、他の絵にはないオリジナリティーもある。絵の女性に神秘性のようなものを感じました。現実の世界にはない時を越えた力のようなもの。本物の芸術には必ずある大事なものです。ただ、何かが足りないように感じました。その何かが私は引っかかるのです」と言った。  画家は眉毛をぴくぴくと動かし「その何かとは?」と尋ねる。七海は思い出そうとした。いつの日かカタリーナ女王に仕えて行ったイギリスの伯爵邸のことを。そこにあった一枚の絵画のことを。  1662年カタリーナ王女がイギリスのチャールズ王太子の元へ嫁いだ。その翌年の春、二人はロンドン郊外にある伯爵邸に招かれた。もちろん二人だけでは行かない。二人が移動するとなれば、何十人ものお付きの者が同行する。その中に七海も混じっていた。  見渡す限り緑の丘陵地が広がり、その中心に大きな屋敷が建っている。屋敷の周りには優雅な散歩を楽しむための庭園が整備され、その近くには牧場や果樹園が営まれている。さらにその周りには手つかずの森や草原が広がっていた。これら全てを手中に治めているのが、カタリーナ王女たちを招いた伯爵であった。  七海たち使用人たちは昼頃屋敷に到着すると、すぐに夜の食事会の準備に取り掛かかった。七海は調理場の手伝いに入った。そこのコックに「料理に使うハーブが足りないから裏で摘んできておくれ」とお願いされる。屋敷の裏には畑が広がっていて、たくさんの野菜が栽培されている。広い畑の片隅にハーブ園があった。  そこに向かう途中で小さな木の家を見つける。「あの家は畑作業するときの休憩所だな。疲れたらあそこでお茶をするのさ」とコックが教えてくれる。「とても綺麗で品がある建物ね」と七海が言うと、「この屋敷の伯爵様がこの土地を所有する前から、あそこに建っているらしい。たぶん小さな貴族が建てたと思うんだが、今となっては誰も知らない。壊すのも手間がかかるから、休憩所として有効活用させてもらってるのさ」とコックは言った。七海はその小さな家が気になったので「私も入ってみていいかしら?」と尋ねた。「今の時期は誰もいないから、勝手に使いな」とコックが言うので、「すぐに戻るわ」と七海は言って調理場を出た。  ドアを開けると、大きなテーブルが一つと椅子が何脚か置いてあった。テーブルの上にはポットとコップが置いてある。テーブルの奥に上へと続く階段がある。階段を登った先は寝室になっている。仮眠をとるためのベッドが二台置いてあった。窓際のベッドに七海は腰を下ろす。窓の外には畑が広がっていた。温かな光が七海の顔を照らす。 どこからかタンポポの綿毛が一輪飛んでくる。綿毛は窓から家に入り、七海の目の前を通り過ぎた。七海は綿毛を追いかけるように顔を左上に向ける。左上に顔を向けた瞬間、七海はある女性と目が合った。若い女性が一人、七海を見下ろしていた。  でもそれは本物の人間ではない。絵画に描かれた女性だった。ただ絵の女性は、溢れんばかりの生命力を絵の外に放出していた。今にも動き出しそうに見えるだけではない。絵の中に七海を連れて行こうとしているのか。絵の女性の瞳から目を離すことができない。「あなたがここに来るのを待っていました。さあ、早く共に参りましょう」という声が聞こえた。七海は首を振る。ここには私しかいない、ただの耳鳴りだと言い聞かせた。それでも絵から目を離すことはできない。目を閉じることもできない。絵の中の女性はじっと七海を見下ろし続けていた。七海の力を奪い取るように、じっと。 「おーい、七海さん、そろそろ戻ってきてくれ!」と外からコックの声が聞こえた。その瞬間、七海は絵から目を離すことができる。すぐに立ち上がり、逃げるように外に出た。  そのときの絵と、今回の絵はとてもよく似ていた。黒い背景に一人の女性がこちらを振り返っているという構図も、観る者を絵の中に引き込もうとする力も、本当によく似ている。ただ、木の家の絵にはあって、今回の絵にはない決定的なものがあった。 「女性の唇の赤が足りない」と七海は言った。「もっともっと赤くなくてはいけない。そうでないと、すぐに目をそらしてしまう。私がそうだったように」木の家の絵の女性は、真っ赤なに塗られた唇をかすかに開いてこちらを見ていた。あの赤に魅せられて目を離すことができなくなったんだ。今回の絵の女性の唇は薄いピンク色だった。だから、すぐに目を離すことができた。 「なるほど、赤い唇か!」と画家は目を見開いた。棚の中から赤い塗料を探し始めた。ただすぐに七海の方を見て「ダメだ、ここに赤い塗料がない。あなたは持っていないかい?」と尋ねた。 「私?私は持っていない」と七海は首を振った。 「あなたはポルトガルから来たのだろう。だったら持っているはずだ。前にここに来たポルトガル人の男は持っていた。赤い宝石を」と画家は言った。 「赤い宝石…」あの赤い宝石は美月が持っている。美月はここにはいない。どうすればいいのだろう。文字通り、七海は途方に暮れた。  同じ頃、美月は洞窟の中にいる。赤い光の中で洞窟の壁にカラフルな絵が浮き出てくる。美月は体を引きずりながら、洞窟の中央に向かう。さっきまで赤く光っている宝石が落ちている。美月は宝石を掴むと、仰向けになる。天井には黄色い満月が描かれている。その満月に向かって赤い宝石を投げる。宝石は満月に当たり、そのまま壁の中に埋まっていく。赤い宝石は壁画の一部になり、キラリと赤く光る。赤い宝石は赤い星になる。  美月が投げた赤い宝石が洞窟の天井に当たった瞬間、七海のスーツケースからゴトッと音がする。気のせいだとは思えないほどの大きな音だ。七海は駆け寄りスーツケースを開ける。中には赤い宝石が入っている。ついさっき美月が投げた赤い宝石が入っている。美月が持っていたものだと七海も気づく。何か不思議な思し召しによって、赤い宝石はここにやってきた。暗闇の道をすり抜けて、ここにやってきた。  七海は赤い宝石を手に取る。それを掲げて画家の方に向き直る。「赤い宝石はここにある。これで絵を完成させて」と七海は言った。 「やはり持っていたか。ポルトガルの人々は必ず約束を守るんだな」画家は赤い宝石の端っこを切り落とす。それを磨り潰して粉状にした後、水に溶かして赤い塗料を作った。画家は筆につけて、丁寧に唇を塗った。絵の中の女性の唇が赤く輝き始める。一段と美しく妖艶になっていく。「やはりポルトガルの女性は美しい」と画家は言った。 画家は唇を赤く塗りながら、七海に尋ねる。「それで君の願いは何だね?願いがあるから、ここまでやってきたのだろう?」  七海は画家の目をしっかり見て、「ポルトガルをスペインの侵攻から救ってほしい。ポルトガルに平和をもたらしてほしい」と言った。 「お安いご用だ」と画家は言った。「前にも同じ願いを叶えたことがあるからね」  画家は絵を完成させる。絵の女性は七海を絵の中へ連れていく。今度はその力に抗うことはできない。「さあ、参りましょう」と誰かが言った。暗闇の先に光が見えた。そして潮の匂いがした。波の音も聞こえた。懐かしい気持ちになる。そこに向かって七海は歩き続けた。「ねえ、あの呪文は言わないの?」と誰かが耳打ちする。 「呪文?」「そうよ、あなたの大切な呪文を聞かせて」 「空気が変わった。そのとき自身の心に従うべきだ。そこに進むべき道があるから」  どこかでカチッと針が揃う音が聞こえた。  気が付くと、七海は海辺の塔にいる。 「おかえり、日本はどうだった?」と声がした。青年がこちらを見ていた。日本へ旅立つとき、ポルトガルのお菓子をくれた青年だった。 「また行きたい。約束したから」と七海は言った。塔からは大西洋が見える。キラキラと海面が光っていた。七海は目を細めてそれを眺めていた。
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