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第二十二章 仮面男の舞踏会
スペインから来た仮面男は、文字通り仮面舞踏会に参加していた。弦楽器協奏曲が終わり部屋の明かりがつくと、大広間には仮面をつけた紳士や淑女で溢れかえっていた。彼らは体に豪華な衣装を身に着け、顔には奇妙な仮面をつけている。そして弦楽器協奏曲が再び始まると、男女ペアとなり踊り始めた。まずは最も地位が高い男性と女主人が踊り始め、それに倣うように他の男女もステップを刻み始める。仮面男が実際にスペインで経験してきた舞踏会の作法と全く同じだった。
いきなり仮面舞踏会が始まってしまったせいで、スペインの仮面男は相手を見つけられず壁際で立っているしかできない。さっきまで横にいた熊はいなくなっている。仮面男はただダンスを眺めていることしかできない。
二曲目のワルツが始まったとき、仮面男はある女性の存在に気づく。反対側の壁際に設置された椅子に優雅に座っている。シンプルな暗い赤色のドレスを着て青いスカーフを首に巻いている。彼女は仮面をつけていない。ありのままの素顔を誇らしげに見せてつけている。彼女の肌はとても白く、薄ピンク色の唇が上品に添えられている。彼女の大きな栗色の瞳が仮面男を捉える。仮面男は電気を浴びたように、彼女の元へ歩き始める。彼女に話しかけずにはいられなくなっていた。
「あら、あなたはとても素敵な仮面をつけてらっしゃるのね」と彼女は上目遣いをしながら仮面男に言った。「光栄です、マダム」仮面男はお辞儀をして隣の椅子に腰かける。
「踊らないのですか?」仮面男はダンスを見ながら尋ねる。
「ここでは仮面を付けていない者は踊ることはできないの。私はここに座り美味しい物を食べながらダンスを見続ける。それが私の仕事なの」
「とても楽しそうな仕事ですね。マダムはどうして仮面をつけないのですか?」
「私には隠したいものがないの。隠そうとしても全てが外側に見えてしまう。むしろ全てを見せつけたくなる。だから仮面をつけても意味がない。逆に言うと、仮面を付けている者はみんな隠したいものがあるのよ。仮面をつけて自分の弱さみたいなものを覆い隠しているの。本当の自分を隠すことで、堂々と胸を張って踊ることができる」
「マダムは強いのですね。自分の弱さでさえも見せたくなってしまう」
「そう、私は普通ではないの。天上世界で生きる者だから。天上世界で生きる者には隠すべき弱さなど微塵もないのよ」マダムはそう言ってグラスを手に取りワインを口に含んだ。全ての所作が優雅で品があった。どんな踊りよりも仮面男は目を奪われた。
「天上世界?では、あなたが神なのですか?私の願いを叶えてくださる神なのですか?」仮面男はスペイン侵攻を成功させるためにここに来た。ポルトガル陥落を神の力で叶えてもらうのだ。
マダムはじっと仮面男を見つめた。仮面に向こう側を見通そうとしているかのようだった。「あなたの仮面はとても頑丈なのね。そのせいであなたの心を読み取れない。願いを叶えてあげてもいいけど、あなたが心の底から望むことでなければ叶えられない。だから、あなたのことを教えて」
「俺のことですか?」
「そう、好きなものや嫌いなもの、何だっていい。何も考えずに心の中で自然と湧き上がる風景をそのまま言葉にして。それが本当のあなただから」
マダムの言葉に仮面男は目を閉じた。頭を真っ白にする。真っ白な地面の上に、カラフルな風景が湧き上がる。その風景の中から言葉を探し始めた。
仮面男の心に沸き起こったのは、一枚の絵だった。トレド大聖堂で見た一枚の宗教画。エル・グレコというギリシア人画家がルネサンス期に描いた傑作だ。
「緑の服を着た天使ガブリエルが若い女性の下に降りてくる。そして天使は女性に跪いて『あなたは神の子を授かった』と告げる」そんな一場面を描いた宗教画。「受胎告知」と呼ばれる新約聖書に出てくる有名なエピソード。マリアが聖霊によりキリストを妊娠したことをガブリエルが告げ、マリアがそれを受け入れる。
仮面男が何より惹きつけられたのは天使ガブリエルだった。聖母マリアでもなく、絵全体の構図などでもない。絵を一目見た時から「天使ガブリエルのようになりたい」と思った。「俺も救世主を見つける存在になりたい。キリストが我々を救ってくれたように、この世界の新しい救世主を俺も見つけたい。救世主を見つけて俺は言うんだ。『お前こそが救世主だ』だって。天使ガブリエルが聖母マリアにそうしたように」
大人になるにつれ、仮面男はその願いを奥深くに隠すようになる。彼自身もその願いのことを忘れてしまう。そして今、彼ははっきり思い出した。自分の本当の願いを。
仮面男の告白をマダムは黙って聞いていた。ゆっくりと足を組み替えて、微笑みながらマダムは仮面男に囁く。
「その願いなら、叶えてあげてもいいわよ。その代わり、元の世界には帰れなくなるかもしれない。それでもいいかしら?」
仮面男は構わないと答える。やっと思い出した本当の願いなのだ。俺だけの願いなのだ。それが叶うなら全てをくれてやる。スペインだのポルトガルだのはもうどうでもいい。俺には俺のためにやるべきことがある。
「そうこなくっちゃ」とマダムは言ってパチンと指を鳴らした。その瞬間、音楽が消える。ダンスも消える。そして光も消える。何も見えない暗闇が目の前を支配した。
目の前が明るくなる。ただ、もうそこは宮殿の大広間ではない。仮面をつけてダンスをする華やかな者たちはいない。そしてあのマダムもいなくなっている。仮面男がいたのは茶色い壁に覆われた洞窟の中だった。
仮面男は洞窟の天井にぶら下がっている。だから全てが逆さまに見える。仮面男はもう仮面をつけてはいなかった。ギョロリとした目で洞窟全体を監視している。そしてその姿はもはや人間ではなかった。全身が黒く光っている。それは黒い翼だった。黒い翼で全身をマントのように覆い隠し、天井にぶら下がっている。どこからどう見ても、その姿はコウモリだった。仮面男はコウモリになり、茶色い洞窟を天井から見下ろしていた。
仮面男は自分がコウモリになったことを受け入れている。そして自分がここでやるべきことを分かっている。暗闇の中でマダムがしっかり教えてくれたから。ここいれば救世主に会えるはずだ。
幾日も過ぎた時、ある家族がその洞窟の中で住み始める。父と母と娘の三人家族だった。父が昼間に食料を調達し、母は土器や毛皮を作り、娘が母を手伝った。仲睦まじい普通の家族だった。それをコウモリは天井から観察している。
ある日、父と母が二人で食料を採りに出かける。娘が一人で洞窟の中に残される。不運なことに、どこかで火山が噴火する。すぐ近くだ。つんざくような爆発音がすると同時に、大きな揺れが起こる。その揺れは山を崩した。崩れた山から大きな岩がいくつも転がってくる。大きな岩が洞窟の出口を塞いでしまう。娘は洞窟に閉じ込められる。外の世界から完全に隔絶される。娘にそこを抜け出す術はない。
娘は「もういっそのこと死んでしまおうか」と考える。キラリと光る鋭利な石で急所を突き刺し自ら命を絶ったほうが、飢えや渇きよりも苦しまずに死ねる。娘は石を両手で掲げ、喉元を突き出す。娘の喉元と石が一直線上に並んだ瞬間、娘の中から死への恐怖が消え去る。そして死は希望に変わる。娘は希望への道を歩き出そうとした。
コウモリはそれを見て、イエス・キリストのことを思い出す。十字架に磔となって死が間近となっても、人類を罪から救おうとした。むしろ自分が死ぬことで、人類が救われると考えていた。彼は救世主だったのだ。今から喉を突き刺そうとしている娘の姿が、磔となったイエスの姿と重なった。そうか、この娘こそが新しい救世主なのか。
「なあ、取引しないか?」気づいたらコウモリは娘に話しかけていた。「気に入ったよ。お前こそ救世主だ」コウモリはニヤリと笑いかける。天使ガブリエルがマリアに跪いたように、コウモリはぶら下がったまま頭を垂れた。
コウモリの仕事は救世主を見つけるだけではない。救世主に試練を与えることも大事な役目だった。試練を乗り越える強い意思があるかどうか、それを見極める。コウモリはもう決めていた。娘に課すべき試練を。
「お前の足元に茶色の石がたくさん落ちているだろう?それで壁に絵を描け。なんでもいい。好きな絵を壁に死ぬまで描きまくれ。そうすればお前を一万年後の世界に生まれ変わらせてやる。お前は新しい世界で救世主として生きていくんだ」
自分が大好きだった絵をこの娘に描かせる。スペインで見たような壮大な絵画を、この壁に刻んでほしい。そうすれば俺も救われるのだ。
「あなたとの取引に応じる」娘はそう言って茶色い石を一つ拾い上げる。彼女は洞窟に壁画を描き上げる。何万年も語り継がれる壮大な壁画を描き上げる。
壁画を描いている間、コウモリは娘が苦しくならないようにしてやる。食料や水が尽きても、飢えや渇きを感じないよう取り計らう。それくらいの力は持っている。ただ、その力は描いている間だけだ。壁画が完成した瞬間、娘はその場に倒れる。
「やはりお前は救世主だ。俺の目に狂いはなかった。もっと広い世界を楽しめよ」コウモリは事切れかけている娘に囁く。娘は微笑んで事切れる。壮大な茶色の壁画が彼女を見送った。
コウモリは今も探している。新しい救世主を。世界中の洞窟の中で。天井にぶら下がりながら救世主を待つ。「なあ、取引しないか?」そう話しかけるチャンスを待っている。
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