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第二十三章 新しい旅立ち
北海道での旅を終えた美月と遥香は、東京で山岡銀行の通常業務に戻っていた。東京では平穏な日常が続いている。赤い宝石は持って帰ることはできなかった。そして、宝石をめぐる多くのことは、遠い昔に起こったことのようでもあり、夢のことのようにも思えた。
「そろそろお昼に行きましょう」美月は立ち上がり遥香に話しかけた。
「そうですね、今日は何を食べましょうか?」遥香は作りかけの書類を保存し、パソコンを閉じる。
「あなたの好きなところでいいわ」美月は窓の外を見つめながら答える。どこかノスタルジーに浸っているような目をしていた。
「珍しいですね。いつも行きたいところは決まっているのに」
「そんな日もあるのよ」と美月は微笑みながら言った。
「じゃあ、私のお勧めの定食屋さんに行きましょう。川の近くの路地裏に最近見つけたんです」
「そこで決まりね」美月はドアの方に歩いていく。
「あ、美月さんは茄子食べられましたっけ?」遥香が思い出したように尋ねる。
「ナス?」美月が振り返る。「はい、野菜のナスです」
人通りの少ない路地裏に一件だけ暖簾をかけた建物が見えてくる。白い暖簾に「なすび食堂」と黒文字で書かれ、その横に紫色のナスらしきイラストが描かれている。白い暖簾をくぐり、古い扉を横に開ける。ガラガラと心地よい音が鳴り響いた後、「いらっしゃい!」と威勢の良い声が聞こえてきた。
店の中には大将らしき恰幅のよい男性と、パートらしき中年女性の店員がいた。男性は椅子に座り新聞を読み、女性は洗い物をしていた。お客さんは私たち以外にいなかった。お好きな席にどうぞと言われたので、美月たちは奥のテーブル席に座った。店内の壁には手書きのメニューが所狭しと貼られている。なすび甘辛炒め、なすび生姜焼き、麻婆なすび、なすびヘロヘロ煮?…
「もしかしてここって、ナスを使った料理しかない?」美月が呆気に取られた顔で遥香に尋ねた。「はい、その通りです。お肉ばっかり食べてると体に悪いですから」遥香は満面の笑みで答えた。
仕方なく美月は「なすびのみぞれ煮定食」を注文した。遥香は「なすび炒め定食」を注文する。どちらも熱々で茄子がとても美味しい。ただ白飯の量が多すぎて、二人とも食べきれなかった。
「お口に合いましたか?」若い男性の店員が水を注ぎながら美月に話しかけてきた。ちょうど遥香がトイレに行き美月が一人になったタイミングだった。店員は真っ白な割烹着を着ている。
「はい、とても美味しかったです」美月はそう答えながら、この店員と自分の二人だけになっていることに気づく。店内に入った時に見かけた、大将らしき男性もパートらしき中年女性もいなくなっている。息遣いも聞こえるほどの静寂が店内を包んでいた。
「うちの茄子は北海道の契約農家から直接仕入れているんです。北海道産の茄子はとても甘いんです」男性はそう言ってから、じっと美月の目を見つめた。
「あの、何か?」美月の問いを無視して、男性は視線を注ぎ続ける。美月はその視線から目を逸らすことができなくなる。男性は少しずつ顔を近づける。
「ふむ、あなたからは茶色いオーラを感じるね」と男性は美月の耳元で囁いた。その瞬間、美月は思い出す。北海道の旧神居古潭駅で七海と会いに行った蛇のことを。言葉を話す不思議な白い蛇のことを。美月を不思議な舞踏会へ連れて行った白い蛇のことを。
「ワイもちゃんと人間に戻してもらえたよ。昔の罪を赦してもらえたんだ」そう言うと男性は美月から離れ、店の奥に入っていく。
一人残された美月は改めて実感する。あの北海道で合ったことは夢ではないことを。ちゃんとした現実で、それは今でも続いている。平穏な日常しかないと思っていたこの東京にもしっかり続いている。「前のように何も知らずに生きていくことはできなさそうね」と美月はつぶやき、席を立った。
遥香が席に戻ると美月がいなくなっていることに気づく。先に会社に戻っているのだろう、また何か思いついたんだろうな、次は何を言い出すんだろうと遥香は考える。遥香に何も言わずにどこかへ行くなんてよくあることなのだ。そしてそれはいつも何かを閃いたときなのだ。美月さんがまた動き出そうとしていると遥香はワクワクしてきていた。
その翌日は土曜日で、会社は休みだった。美月は赤松と会う約束をしていた。赤い宝石のことを話すつもりだった。待ち合わせ場所はもちろん大学キャンパスのベンチだった。
「そう、そんなことがあったのね」赤松は美月の話に静かに耳をすませ、最後にそれだけを言葉にした。まるで草原に一輪の花をそっと植えるように。
「コウモリが言った救世主とは何のことか分かる?私にはさっぱり分からないの」
美月の言葉に反応するように、赤松は美月の目をじっと見つめる。「私に分かるのはね、あなたの舞踏会はまだ続いているってことよ。あなたはこの世界で踊り続けるしかないの。あなたの踊りで世界を変えていくしかないのよ。きっとそれが世界を救うことになる」
赤松の言葉を聞いて、美月はそっと視線を地面の方へ向ける。「私はどんな風に踊ればいいのかしら?」
「それは、あなたで決めて。どんな本にも書かれていないから」と赤松は答えた。草原に咲いた花をそっと一輪摘むように。
「ありがとう。勇気が出てきたわ」美月はそう言って、ベンチから立ち上がり赤松と別れた。赤松はベンチで一人になると、鞄から本を取り出し読み始めた。
「隣、いいですか?」読書をする赤松に、男性が話しかける。赤松はその声に聞き覚えがあった。赤松が答える前に、男性は隣に座る。どこからか風が吹く。その風に乗って男性から獣の臭いがした。いつか北海道の裏山で出会った熊と同じ臭いだった。
「あなたも罪を赦されたの?」と赤松は本に目を落としたまま尋ねる。
「ああ、許されたよ。ちゃんと人間になってあなたに会いにきた」と男性は言った。その言葉を合図に赤松は本を閉じて、男性の方へ右手を伸ばした。男性は赤松の手をそっと握った。「もう二度とその手を離してはダメよ」と赤松は言った。男性は黙って頷く。またどこからか強い風が吹いてきた。その風に負けぬように二人は手を握り合っていた。
美月はその足で目に付いたスターバックスに入る。美月が学生の頃は汚い食堂だったところが、今では小綺麗なスタバになっている。まだ昼前だからか店内の人はまばらだった。美月は奥の二人掛けの席に座り、コーヒーを飲みながら店内を観察した。
不思議なことに、ほとんど誰も動いていないように見えた。注文カウンターの中にいるエプロンをつけた店員たちも、木のテーブルに座ってコーヒーを飲む客たちも、その場に張り付けられたように動かない。「まるで壁画のようだわ」美月はそっと呟く。誰も聞こえない小さな声で。
机の上に視線を落とすと、コーヒーがある。淹れたての濃い茶色をしている。「ふむ、あなたからは茶色いオーラを感じるね」蛇の言葉が美月の頭に甦る。「こんなコーヒーみたいなのが私からは出ているの?」と誰かに尋ねると、「ああ、だから君は茶色い壁画を描いたんだ」と誰かは答える。その瞬間、目の前に映る光景が茶色い壁画に見えてくる。スタバの店内はすっかり洞窟に刻まれた壁画になってしまう。
美月は机の上に紙ナプキンを広げる。そして人差し指をコーヒーに浸す。人差し指を使って茶色い液体をナプキンに擦り付ける。茶色い線を次々と生み出していく。目の前の映る光景を紙ナプキンの上に表現していく。コーヒーを使って茶色い世界を刻んでいく。
「コーヒーのお代わりはいかがですか?」頭上で声がしたので美月は我に返る。はっと上を見ると緑のエプロンをつけた店員が微笑みながら見下ろしている。「あ、はい!お願いします」慌てて美月はマグカップを差し出す。コーヒーはなくなりかけている。その大半は紙ナプキンの絵に使われている。店員は新しいコーヒーを注ぐと、「ごゆっくりどうぞ」と言って美月に背を向けた。
「その茶色い絵、アルタミラ洞窟壁画みたいですね」店員は背を向けたまま、はっきり聞こえる声で言った後カウンターに戻っていく。美月は改めて自分の絵を見直す。テーブルの上に大きく広げられた紙ナプキンの上には、茶色い線で様々な生き物たちが描かれている。紙ナプキン全体に所せましと描かれた生き物たちは、それぞれの生命力を持って動き出そうとしている。「確かに、アルタミラみたいだわ」と美月は頷いた。
そしてスマホを取り出し電話をかける。相手に用件を伝えると、「また急ですね」と相手は慌てる。「いつものことでしょ」と美月はクールに言った。「楽しみにしています」と相手は言った。美月は電話を切ってコーヒーを手に取る。そしてもう一度店内を見回すと、店員も客も今度はちゃんと動いていた。カラフルな生命力が店内に溢れている。その光景を見て美月は紙ナプキンを畳んでバッグにしまう。
スタバの外では、夏の青空がどこまでも広がっている。美月はコーヒーを飲み干し、新しい世界に踏み出していった。
同じ頃、遥香は酒井の研究室を訪れていた。酒井も夏休みが終わり東京の大学院に戻って来ていた。ペンションで酒井の研究内容を聞いて、興味が湧いたのだ。目に見えない小さな世界のワルツとは一体どんなものなのか。
研究室はキャンパスでも一番端にある建物の地下にあった。建物のすぐ隣がテニス場になっていて学生たちが大きな声を出している。階段を下りると、鉄の扉が姿を現す。その鉄の扉を開けると、本棚で部屋が仕切られている。奥では助教の席があり、手前が酒井の席だった。酒井は大きな木の机にパソコンと本と数式が書かれた書類を置き、壁には世界地図を張っていた。実験施設は別にあるらしく、この部屋で実験の結果をまとめレポートを作成したり論文を読んだりしているらしかった。
「見てください、このギザギザ。物質たちがユラユラ動いている証拠です」酒井はディスプレイを指さす。そこにはあるグラフが映し出されていて、黒い線が斜め下に伸びながら上下に行ったり来たりしている。「つまり、物質たちがワルツを踊っている証拠なんです」遥香はその黒い線をじっと見つめて、「やがて彼らは一つになり光になる」とつぶやいた。酒井は遥香の横顔にそっと視線を向ける。黒く長い髪の毛に隠れて表情は見えない。「それが自然の摂理ですから」とだけ言葉を返した。
二人は研究室を出てキャンパスを歩いた。長く伸びた石畳の両側に背の高い木が何本も植えられている。「ここ銀杏並木なんです」と酒井は言う。まだまだ葉は青く茂っている。「秋になると、ここ一面が黄色くなります。幻想的な黄色の世界が広がるんです」酒井の言葉に、遥香は実家の部屋から見えた紅葉を思い出す。あの木のおかげで、私は美月さんに出会えたのだ。
「僕、七海さんと約束したんですよ。ここの銀杏並木を案内するって」
「まだ七海さんはペンションに戻られないんですか?」
「はい、何も連絡がないので」
あの日、七海だけがペンションに帰って来なかった。美月にも分からなかった。何日経っても帰って来なかったから、きっとポルトガルに帰ったのだと言い聞かせた。もしペンションに帰ってきたら、女主人から連絡が入ることになっていた。
「七海さんの着替えは大事に畳んで置いてあるそうです。七海さんがいつでも取りに来られるようにと」七海はシャワーを浴びた時、その日着ていた服一式をペンションの洗濯物に出していた。女主人は洗濯をしてアイロンをかけ、ハンガーにかけている。埃がつかないようにビニールをかけて。
「七海さんがちゃんとペンションにいたという証は残っているんですね」と遥香は言った。何百年前のポルトガルから来た女性は誰かの夢ではなかった。ちゃんとした現実だった。
そのとき遥香に電話がかかってくる。ちょっと失礼しますと言って、遥香は電話に出る。「来週からスペインに行くわよ。アルタミラ洞窟壁画を見に行きましょう。ちゃんとこの目で見ないと、どこにも進めないわ」と美月の声が聞こえる。
「また急ですね」と遥香は言う。でも、いつものようには驚かない。いつの日か美月がそう言ってくる気がしていたのだ。あのペンションの裏山の洞窟でカラフルな壁画を見た時から。どこかで美月さんとアルタミラ洞窟壁画は繋がっている気がしていた。
「いつものことでしょ」と美月はクールに言った。
「楽しみにしています」と遥香は笑顔で言った。心の底から楽しみだった。電話を切ると、遥香は大股で歩き始める。
「どうしたんですか?急に元気になったみたい」酒井が後ろから声をかける。
「美月さんからまた無茶ぶりですよ」と遥香は言った。顔を上げると、生い茂る青い葉が見える。そこに光が当たって、ところどころ黄金に輝いていた。
「おはよう!」
女主人はペンションのドアを開けると、誰もいない玄関に向かってそう叫んだ。外には雲一つない水色の空が広がっている。玄関のポストに朝刊を取りに出るとき、「おはよう!」と大きな独り言を叫ぶのは、この女主人の習慣だった。
女主人が経営するペンションの前には、一本道が走っていた。朝刊を取り出した女主人がふと道の方に目をやると、短い髪の若い女が一人で歩いていた。茶色い革のスーツケースを引いて、緑のブラウスに白いロングスカートという恰好だった。一目見て育ちの良い品の良さを感じずにはいられない。一本道をただ歩く姿も絵になっていた。
「ご無沙汰しています!」とその若い女は女主人に頭を下げた。「洗濯に出した服を取りに来ました!」と頭を下げたまま言った。
「久しぶりだね、あんたの服はちゃんと綺麗になっているよ」と女主人は言う。
「ありがとうございます!」と言って若い女は顔を上げる。前に見た時よりも、少しだけ大人びて見えた。
「もしよかったら休憩していかないかい?朝ごはんができたところだから」女主人がそう言うと、若い女は安堵の表情を浮かべて「そう言っていただけて助かります」と言った。落ち着いた品の良い声だった。
女主人はペンションのドアを開けて、ポルトガルから来た若い女を迎え入れた。朝のコーヒーの香りと共に、新しい一日が始まった。
〈終〉
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