第四章 バスを追いかける車

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第四章 バスを追いかける車

「ところで、今回の宝石って何なんですか?美月さんが今まで見たことない宝石って珍しいですよね。私にも詳しいこと少しは教えてくださいよ」バスを追いかける車の中で遥香は美月に尋ねた。道はまっすぐで広い。他の車もほとんど走っておらず、バスのスピードも速くなかったから、遥香はリラックスして運転していた。美月も先ほどの食い入るような姿勢から、座席に深く座り込んでスマホを眺めていた。 「そうね、あなたにも知っておいてもらわないとね」  美月はスマホを鞄にしまい、少しだけ姿勢を正して話し始めた。 「私には進むべき方向を相談できる友人が一人だけいる」 「お父様やおじい様以外にですか?」 「それは会社の経営に関することね。もっと広い人生や価値観に関わることよ」 「そんなお友達がいたなんて初耳です」美月の秘書になってから四六時中一緒にいるようになってから、美月のプライベートなことも遥香はある程度知っている。そんな遥香でも知らない、美月に助言を与える稀有な人物だった。しかも人生の進むべき方向を。少しだけ遥香も姿勢を正した。  美月が今から話題にあげようとしている友人、それは大学時代からの付き合いだった。卒業した今でも数か月に一度、顔を合わせて話をした。どこにでもあるような女子大生同士の友人関係…それとは性質が全く異なっていた。  美月の友人は名前を赤松と言った。いつも大学キャンパス内の決まったベンチに座り、何か本を読んでいた。さらさらとした前髪に目が隠れている。しかも地味な格好をしていたから、誰もその存在を気に留めていなかった。赤松の方も存在感をなるべく消そうとしているように見えた。キラキラと輝くオーラを周りに強く放っている美月とは真逆の人間だった。  そのころの美月は、普通の大学生活に興味が全くなかった。早く自分の力でこの社会を変革したかった。だから楽しそうにキャンパスライフを送る周りの同級生ともほとんど話さなかった。そんなとき美月は赤松と出会った。ベンチで本を読む地味な赤松のことが、一目見て美月は気になった。あの子と話してみたくて堪らない。そう思うと美月はすぐに行動に移した。 「ガリレオ・ガリレイが好きなの?」美月は赤松に後ろから話しかけた。ベンチの後ろから赤松が読んでいる本をのぞき見すると、それがガリレオ・ガリレイ著の「星界の使者」であることを美月はすぐに認識した。祖父の書斎の本棚にあったのを覚えていたから。美月自身は内容を知らない。でもガリレオ・ガリレイの名は知っていた。  赤松はびっくりした顔で後ろを振り向いた。つぶらな瞳が大きく見開かれて美月に注がれている。他人に話しかけられることを想定していなかったようだ。でも美月のことを無視したりはしなかった。 「逆です。嫌いなんです」赤松は前を向いて答えた。 「どこが嫌いなの?」美月は赤松の横に座る。 「ガリレオ以前の宇宙はとても美しく幻想に満ちていました。地球を中心に多くの星が回っている。それを回しているのは天使たちです。天使たちのおかげで星空は美しく回ってくれていた」 「とても素敵な宇宙だったのね」美月は天使たちを想像しながら言った。 「1609年にガリレオが望遠鏡を自作し、宇宙を観測するようになってから、天使たちは姿を隠してしまいました。そして地球自身が公転と自転を始めました。それが今の宇宙になってしまった。ガリレオが望遠鏡を作ったせいなんです。その前まで天使がいたのに」 「でも、ガリレオが正しかったんでしょ?科学的に宇宙を観測した」  赤松はふーっと息を吐いて美月の顔を見る。 「あなたは見えているものが正しいと考えているのね。天使たちは隠れているだけよ。ちゃんといるの。ガリレオが望遠鏡で見てしまったせいで、宇宙そのものがそのあり方を変容しただけよ。人間に本当の姿を見せないためにね」  さっきと同じつぶらな瞳が美月を見つめている。その瞳は弱弱しいものではなかった。美月の力強いオーラでさえ、圧倒してしまうほどのエネルギーを放っていた。美月はそれに圧倒されて何も言えなかった。 「良いこと教えてあげる。今晩9時12分ごろ、北東の夜空を見てみて。そしたら四つの星がある。その時間は四つの星以外は輝いていないから、すぐにわかると思う。その星は四角形に並んでいる。その四角形をじっと見つめてほしいの。そしたら少しだけ天使が顔を見せるから。ほんの少しだけだから注意してね」赤松はそう言い残してベンチを後にした。美月は大きな波に飲み込まれたような虚無感を感じていた。  その夜、美月は言われた通り北東の星を眺めた。そこにはきちんと四角形の星座がある。四角形の中は暗闇が広がっている。美月は瞬きすら我慢して、じっと四角形を見つめた。ずっと目を見開いているせいで、目が乾いてきた。それと呼応するように目に涙があふれてくる。目全体が涙で覆われたとき、四角形の中に人の顔が見えた。ショートヘアのベビーフェイスの女の子?そう思って美月は瞬きをしてしまう。涙が目からこぼれると、四角形の中の人は消えていた。あれが天使…?だが人の顔ははっきり認識できた。 「天使の天窓と言うのよ」翌日赤松にそう教えられた。 「天使はちゃんといるのね」美月はそっとつぶやいた。 「信じている者にだけ、世界は真実を見せてくれる」赤松もそっとつぶやいた。  それ以来、美月と赤松は友達になった。いつも同じベンチのところで二人で話した。いつも美月が会いに行き、いつも赤松が待っていた。  美月が生きる実社会の世界のことを、赤松は全く興味を示さなかった。赤松が生きる不思議な世界のことを、美月はとても興味を示した。自分が見てきた世界はかりそめの姿であることを、赤松は教えてくれた。かりそめではない本当の世界を少しでも知りたくて、美月は赤松に会いにった。本当の世界を知るための方法を、赤松は美月に親切に教えた。赤松が示す読むべき本や行くべき場所や見るべき物を、美月は素直に取り入れていった。 遥香は黙って美月の話を聴いていた。 バスも車も一定の車間距離を保ち、まっすぐ進んでいる。 「私たちは大学を卒業してからも会っていた。もちろん同じベンチで」 美月は前を見ながら言葉を続ける。その目はバスではない遠くを見ていた。  一週間ほど前に美月が赤松と会ったとき、赤松は先月行った北海道旅行のことを話し始めた。赤松から旅行などの世俗的な話題が出るのは珍しい。 「家族で親戚が経営しているペンションに行ったの。夏の北海道は緑豊かでとても壮大な場所だった。夜になると星がとても綺麗だったから、私は望遠鏡を持って、ペンション近くの裏山に登った。もっと星の近くまで行って、星を見たかった」 「ガリレオ・ガリレイがかつてそうしたように」美月が懐かしそうに口を挟む。 「そう、皮肉なことにね。生い茂る木の間を抜けると、空が抜ける場所に出た。さっきよりも空が澄んで見える。そこに望遠鏡を置いて、星を観察していたの。北極星や北斗七星がとても綺麗に見えた」 美月もその風景を想像した。北の空に輝く星たちの姿を。 「後ろの方でガサっと音がしたの。びっくりして振り向くと、そこに一匹の大人の熊がこちらを見ていた。熊がどれほど恐ろしいものか私も知っている。だから一目散に逃げたの。熊が見えているときはゆっくり後ろに下がり、見えなくなったら全速力で走った」 赤松が慌てて走る姿を美月はどうしても想像できなかった。 「下山したところで、少し冷静になった。すると望遠鏡を置いてきたことに気づいたの。あれは叔父から借りたものだし、高価だったから引き返して取りに行こうと思った。きっともう熊はいなくっていると思った。本当はそんなことしちゃいけないんだろうけど、そのときは完全に冷静じゃなかったの」 一瞬だけ冷たい風が美月の頬をなでる。そして風はすぐに止んだ。 「さっきの場所に戻ると、私は目を疑った。さっきと同じ熊が望遠鏡を覗いていたの。前足で望遠鏡を押さえて、片目を穴につけている。そして私の気配に気づいたのか、その熊は私に語りかけてきた。望遠鏡を覗いたまま。 『ここからなら、二つの星がよく見えるな』野太い声が響き渡る。私は驚いて何も答えなかった。何かの空耳かとも思った。でも違った。 『あの二つの星の下に大きな川が流れている、川の下に一つだけ白い岩があるんだ。とても白い岩だ。その白い岩の中に宝石が埋まっているよ。君たち人間は宝石が大好きだろ?俺たちには何の意味もないがな』熊はそう言葉を発したの。はっきりそう聞こえた。 『そんなことをなぜ私に教えてくれるの?』私は熊に尋ねた。できるだけ落ち着いた声でね。 『この道具のおかげで、こんなにも星を綺麗に見させてもらったからさ』熊はそう言って、草の茂みの中へと消えてしまった。  私はもう一度望遠鏡を覗いた。そこには二つの星が綺麗に見えた。北極星や北斗七星なんかじゃない。見たことがない名前も知らない星が二つ並んでいた。あの星たちの下に宝石が埋まっている。私は心の中で熊の言葉を反芻した」赤松は言いたいことを全て言ったのか、ベンチにもたれかかった。  さっきまで心地よかった周りの空気が冷たくなっていることに美月は気づいた。二つの星と、その下に眠る宝石。全くイメージできない。でもこの目で見たいと思った。かつて天使の顔をこの目で見たように。この世界の全てをこの目で見たいのだ。それが現実では考えられないものだとしても。冷たい空気の中で美月は両手を握りしめる。 「きっとね、あなたはそれを見つけるべきだと思うの」赤松はそう言った。  その言葉に美月は我に返る。「どうしてそう思うの?」  赤松は斜め上を見ながら、「空気が冷たくなっている」とだけ言った。そして美月の方を見て、「空気が変わった。そのとき自身の心に従うべきだ。そこに進むべき道があるから」と力強く言った。 「それは誰かの格言?」 「私からあなたへの贈り物よ」  そして赤松は手書きの地図を美月に渡す。 「この星マークのあたりが、二つの星の下の場所。このあたりに行けば宝石がある」と赤松は言った。  美月はそれを手に取り、大切に鞄にしまう。 「すぐに行ってくる」そう言って、赤松と別れた。美月の進むべき道が決まった。この地図の場所に行き、宝石を見つけ出す。美月はその道を歩み始めた。  美月が話し終えるのを見て、遥香はハンドルを強く握る。 「その宝石、絶対見つけましょう」と遥香が言う。 「当たり前よ」と美月が言った。 「この道で合ってるんですよね?」 「ええ、前のバスも同じ道を走っている」 「まずはあのスーツケースですよね?」 「当たり前でしょ」そう言って美月はまたスマホを取り出す。 少しだけ社内の空気が冷たくなったように遥香は感じた。
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