第五章 旭川駅

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第五章 旭川駅

 七海と酒井を乗せたバスは一本道の旅を終えようとしていた。 「次でこのバスは終点だよ」酒井は七海に言った。 「バスはきっとこの辺りまで来たと思います」七海は地図を広げて、ある一点を指さした。一本の直線が終わる場所だった。同時に一本の太い曲線が左右に伸びている場所だった。直線と曲線が交差する地点、そこを七海は指さしていた。 「このクネクネ曲がっている線は石狩川だと思う。バスが走っている一本道と石狩川の交差するところにあるのが、旭川駅だよ。バスはそこで停まる」  旭川駅が近づくにつれ、窓から見える景色にも建物が増えてきた。壮大な自然の景色から多くの人々が暮らす景色に変わっていく。 「とても栄えた街なんですね」七海はポツリと言った。 「北海道第二の都市だからね」酒井は豆知識を披露した。  バスは大きなロータリーに入り、看板の前で停まった。「終点、旭川駅」とアナウンスが流れてドアが開く。ぞろぞろと乗客が降り始める。乗客は十人ほどに増えていた。最後に七海たちは出口に向かった。 「二人分です」と酒井は言って、料金を払った。  酒井が料金を払っているとき、七海は運転手の方を見た。ハンドルの下からキーホルダーの熊が見えた。どこにでもある既製品だ。だが、七海はその熊がとても気になった。何かを暗示しているような気がしてならない。運転手は帽子を深くかぶり静かに前を向いている。だから目は見えない。短く切られた髪の毛だけが見えた。 「ありがとうございました」酒井の声が聞こえて、七海は我に返る。スーツケースを持ってバスを降りる。バスを降りても、あのキーホルダーの熊が気になって仕方なかった。きっと気のせいだ。七海はそう思うことにする。目の前には旭川駅の近代的な駅舎がそびえていた。 「ちょっと飲み物買ってくるから、そこで待ってて」酒井はそう言ってベンチを指さす。七海は言われた通り、そこに座りスーツケースを置いた。駅前の喧騒が七海を包み始めた。  美月と遥香が乗る車も旭川駅のバスロータリーに入っていく。バスから降りてくる客が見える位置に車を停める。 「ここにあんまり長く車停めてると怒られちゃうな」遥香の現実的な言葉など美月は聞いていない。美月はじっとバスから出てくる客を見ていた。 「出てきた!あのスーツケースよ!」美月はそう叫んで、車を降りた。 「ちょっと!私、どこかに車停めてます!」遥香は美月に叫んで、車のエンジンを入れた。  美月はベンチに座っている七海に近づいた。近づけば近づくほど、七海のスーツケースの美しさの虜になった。なんてシックな革だろう。ヴェネツィアのサロンで見たクラシックレザーそっくりだ。そして近づいて分かったことだが、留め金やベルトの部分には細かな刺繍が施してある。幾何学模様と敬称すればいいのか、左右対称の図形の絵柄が煌めく星のように細い糸で縫い付けてある。  美月はスーツケースに惹きつけられるように、七海の横に座りスーツケースの顔を近づけ右手で撫でた。七海は違う方を見ていて、美月が近寄って来ていることに気づいていなかった。  美月の目はスーツケースの留め金に止まった。銀色でできているが、そこら中にあふれる偽物の銀なんかじゃない。本物の銀だと見ればわかる。そしてそこにも模様が刻まれている。それは幾何学模様ではない。紋章だ。ヨーロッパの王や貴族が胸に刻み付ける紋章なのだ。  美月は震える手でその紋章を触る。留め金のひんやりした感触の先に、刻み付けられた紋章の感触が指先に伝わってきた。時を超えたエネルギーが美月の心を震わせた。 「信じている者にだけ、世界は真実を見せてくれる」かつての赤松の言葉が甦る。スーツケースの中に何が入っているか知りたくなった。紋章が刻まれたスーツケースには何が入っているんだろう。美月は心のまま留め金を外そうとした。外そうと指に力を入れると、紋章がカチッと奥に入り込んだ。するとスーツケースが勢いよく開いた。  スーツケースが開く音で、やっと七海は美月の方に振り向いた。七海と美月はお互いの目を見つめあったまま一瞬間が空く。そして「何してるんですか!」七海はそう叫んで、スーツケースを掴んで一目散に走って逃げた。白いロングスカートをゆらゆらとはためかせながら。「あ、ちょっと!」美月が制止する間もなく、七海は建物の向こうに行ってしまう。 「美月さーん、すいません、なかなか駐車場なくて」向こうから遥香が美月に近寄ってきた。「スーツケースどうなりました?」遥香は美月に尋ねる。 「逃げられたわ」と美月は言った。 「これ、なんですかね?」金色の手のひらサイズの丸いものがベンチの下に落ちているのに、遥香が気づきそれを手に取る。見た目以上にずっしりとした重みがある。ボタンのような出っ張りを親指で押すと、パカっと半分開いた。 「これコンパスですかね?」中には「N・S・W・E」の方位を示す文字と、クルクル動く針がガラスの向こうに配置されている。 「羅針盤と言いなさい。コンパスなんて安っぽいものじゃないから」あのスーツケースから出てきたものだ。これもきっと私が見たことがない高価なものに違いない。美月はそう確信していた。遥香から羅針盤を受け取ると、ずしりとした金属の重みが手に伝わってくる。金属とガラスの向こう側では、一本の針だけがクルクルと軽やかに回転していた。 「あなた、この辺りを探してきてくれない?スーツケースの女の子この近くにまだいると思うから」 「わかりました」そう言って遥香は駅構内に入って行った。  一人になった美月はベンチに足を組んで座った。そして拾った羅針盤を観察する。羅針盤の針はずっと回転している。このあたりの磁場は複雑になっているのだろうか?ここは旭川駅の北口にあたる。だから北の方角なんてすぐに分かるものなのに。針が揺れないように両手で羅針盤を押さえても、針はクルクルと回転し続けた。 回転する針をずっと見ていると、旭川駅前の喧騒はどこかに消えたような感覚になった。そしてさっきまで涼しい空気が冷たくなっていることに気づく。 「空気が変わった。そのとき自身の心に従うべきだ。そこに進むべき道があるから」心の中で赤松の言葉が甦る。その言葉を、美月は自身の口で言葉にした。誰にも聞こえないように小さな声で。  その言葉に反応するように、羅針盤の針はぴたっと止まる。針が止まった瞬間、ねじれるような感覚が身体全体に走る。そして美月の意識は遠のいていった。
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