第六章 旭川駅構内

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第六章 旭川駅構内

 その頃、酒井は駅構内のセブンイレブンにいた。ペットボトルの飲料水を二つ買う。自分のは新発売の無糖アイスコーヒー、七海のはミネラルウォーターを選ぶ。朝ごはんを食べてからあまり時間が経っていないので、お腹は空いていない。だがこれから長い道のりになる気がした。七海の見せてくれた地図の星マークの場所に行くには、ここからバスを乗り換えて歩く必要がある。しかも店も人もほとんどない田舎道になる。酒井は迷った挙句、百円ほどのチョコビスケットを一袋だけ買うことにした。  酒井は東京の大学院に通っている。物理系の研究室に所属する修士一年だった。修士の一年目の前半はまだ本格的な研究は始まっていない。今年の四月からは大学院の授業を履修し、卒業に必要な単位をすべて取得した。すっきりした気持ちで夏休みを迎え、北海道に来た。ただこの夏休みが明ければ、就活や修士論文を執筆するための本格的な研究が始まる。もうすぐ訪れる嵐の前の静けさの中で、酒井は夏休みを過ごしていた。でも、今はそんな先のことは考えないようにしよう。この北海道でのゆったりとした夏の日々を満喫するのだ。  そう思っていたとき、七海が現れた。ポルトガルから来た不思議な女性だ。ずっと目を伏せがちでほとんど無表情だ。何を考えているか分からない。ただ、彼女の話はとても色鮮やかなものに思えた。東京の大学院にあるのは、黒板に書かれた白い数式たちと色がほとんどない実験器具とパソコンだ。そして無機質な鉄筋コンクリートに覆われたキャンパス。酒井はそんな世界でずっと生きてきた。それに比べて、七海が語るポルトガルには豊かな色彩に満ちている。酒井の心はその色鮮やかな何かに惹かれていた。  そして七海の隣にいると、見慣れた景色も色鮮やかなものに見えた。ここが北海道だから…?いや違う。親戚のペンションも何度か訪れているし、このあたりは見慣れた風景だ。小さな頃に感じた感動はもはや感じない。でも七海の横にいると、見慣れた風景に感動のような胸の震えを酒井は感じることができた。 ポルトガルの光がここまで届いているのだろうか?その光が見慣れた風景を包んでくれているから、色鮮やかに見えるのだろうか?そんなわけないけど、そうだったら素敵なのに。そういえば、ポルトガルではどんな食事をしていたんだろう?ビスケットみたいなものはあるんだろうか?飲み物はやはりワインなのかな? そんなことを考えていると、レジが酒井の順番になる。 「クレジットでお願いします」そう言ってふと横を見ると、店の外を走る七海が見えた。スーツケースを持ってどこかに走っていく。会計が終わると、酒井はすぐにその後を追った。左手にコンビニ袋、右手にはクレジットカードを持ったまま。  同じ頃、同じ旭川駅構内で遥香は七海を探していた。小走りしながら周りを見回しているが、革のスーツケースを持った女性はなかなか見つからない。  遥香は、中学ではバスケ部に所属していた。当時すでに身長が166センチあったから、センターを任されていた。中学まで何のスポーツの経験がなかった(しかも極度の出不精で、自分の部屋で漫画やアニメばかり見ていた)遥香は、試合前になると極度に緊張し、ネガティブになった。そんなときバスケ部のキャプテンが背中を叩いてくれた。遥香をバスケ部に誘ってくれた親友。同学年でとても小柄なのに、バスケが誰よりも上手くていつも冷静な人だった。何も言わずに二回だけ思いっきり背中を叩く。すると不思議と気合が入った。緊張やネガティブな感情はどこかに消えていた。目の前の試合の中に没入していった。「ボールよこせ!」ガードのキャプテンにどんどん要求し、相手を押しのけてゴールを決めた。  社会人になった今でも、仕事で不安になったら遥香は自分を叩いている。自分で叩くときは、背中ではなく太腿だった。でも、できれば誰かに背中を叩いてほしい。  今ではその誰かは美月になった。美月も小柄でいつも冷静で誰よりも仕事ができる。バスケ部のキャプテンに似ていた。この仕事を自分にできるか、美月の期待に応えられるか、不安になってくると、美月に背中を叩いてくれるようお願いした。「あなたならできるわ」美月は遥香の背中を叩いた後、そう言って遥香を励ました。あの美しい笑顔で遥香を鼓舞した。  スーツケースの女性がなかなか見つからない。もうどこにもいないんじゃないか。美月さんをがっかりさせてしまう。とても不安になってくる。遥香は立ち止まる。遥香は右手で二度太腿を叩く。叩いたところを少しだけ見つめる。そして前を向く。もう不安は消え去っている。さっきより駅構内がくっきり見えている気がする。さあ、試合開始だ。私がゴールを決めてやる。そう思い、また駅構内を走り始める。  真っ直ぐ走って、お土産店を右に曲がる。すると駅の外を走るスーツケースの女性が見えた。あの革のスーツケースだった。「ちょっと、待って!」そう言って遥香はその後を追いかけた。  このとき、七海の近くにいたのは遥香の方だった。遥香は七海の背中につけたが、七海が建物の角を曲がる。遥香もすぐに同じ角を曲がったが、そこに七海の姿はなかった。誰もいない通路だけがあった。「どこに行ったんだろ?」周りを見渡すが、それらしき人物はいない。隠れられそうな場所もなかった。煙のように消えてしまった…そんな表現がぴったりだった。  遥香がそこで立ち尽くしていると、後ろから酒井が走ってやってきた。酒井も七海が消えてしまったのを見て、遥香の近くで立ち止まってしまう。 「あの、ここに女性が来ませんでしたか?革のスーツケースを持ってるんですけど」酒井は初対面の遥香に尋ねる。 「いえ、私もその女の人を追いかけてたんですけど、角を曲がると消えてしまってて」遥香は初対面の酒井に答えた。 「え?」酒井が驚いて言う。 「え?」遥香も同じく驚く。 二人はお互いの顔を、目を丸くして見つめ合う。 「どうして、その女の人を追いかけてたんですか?」酒井が尋ねる。 「えっと…あ、落とし物されたんですよ。スーツケースから落ちたみたいで。それで追いかけてたんです」 「あ、なるほど」 「そちらはどうして追いかけてたんですか?」 「自分は七海さんの案内役で、ここまで一緒に来たんです。飲み物買いに行ってたら、七海さんが走っていくのが見えて、それで」 「七海さんとおっしゃるんですね」遥香は頷きながら言った。 「おっとと」酒井は右手に持っていたクレジットカードを落としてしまう。それが遥香の足元まで滑ってくる。 「これ…」遥香はそれを拾い、じっと見つめた。 「かわいいですよね、ソラ猫。デザインが素敵なので、ここのカード気に入っているんです」酒井が持っていたクレジットカードには、水色で描かれたソラ猫というキャラクターがプリントされていた。無機質な酒井の生活を彩ってくれる数少ないものだった。 「これ、うちの銀行のなんです。使っていただいてありがとうございます」遥香は笑顔でそう言った。そう、このカードは美月が経営する山岡銀行が発行しているオリジナルデザインのものだった。しかもこのソラ猫をデザインしたのは、遥香自身だった。美月から直接依頼されたものだった。 「来年度新しく発行するカードのデザインをあなたにお願いしたいの」そのとき二人は回転寿司屋に来ていた。四人掛けのテーブル席に二人で向かい合って座っていた。もちろん山岡銀行はこの回転寿司屋にも融資していた。 「そんな大きな案件、私にできるでしょうか?」遥香がこれまでやってきた仕事は、社内広報のデザイン兼編集だ。デザインと言っても社内向けだから、大したクオリティは求められない。たた、銀行のカードとなると、全国の山岡銀行の顧客向けになる。しかもそれが山岡銀行の顔になるのだ。頂上が見えないぐらい高いクオリティが求められる。 「なぜ、回転寿司のお寿司はネタが二つ乗っているか知ってる?」美月が突然言った。遥香が首を振ると、美月はさっき取ったマグロ二貫のお皿を見ながら言った。 「ネタが一つだと食べた人を満足させられないからよ。同じものが二つあれば満足させられる」美月は続ける。 「私とあなたはこのマグロみたいなものよ。とてもよく似ている。でも一人じゃ世界を変えることはできない。二人いなきゃダメなの。私だけでは世界を変えられない。あなただけでも世界を変えられない。私とあなた二人いて初めて世界を変えられる。理解できるかしら?」 「はい…わかると思います」遥香は頷いた・ 「私が言いたいのはね、私にはあなたが必要ってこと。そしてあなたが困っていたら全力であなたを助けるわ。約束する。だから、私のことを助けてくれないかな?」美月は遥香の目を見つめながら言った。 「あなたの絵にはそれだけの力がある。私にはわかる」遥香が何かを言おうとしていたが、その前に美月はそう言った。 「私やります」遥香ははっきりと言った。迷いも不安もなくなっていた。憧れの女性にここまで言われたのだ。どんな山だって登りきってやる。 「そうこなくっちゃ」そう言って美月はマグロを一貫口に入れた。残った一貫を遥香は口に入れた。ワサビがのどに入り、遥香は思いっきりむせた。  そうして誕生したデザインがソラ猫だった。遥香がゼロから生み出し、全国に普及させた。もちろんとても好評で、山岡銀行のブランドイメージはさらに上がることになった。 「山岡銀行でお勤めなんですね。酒井と申します。東京で大学院生やってます」酒井は遥香に改めて挨拶をした。 「榎本と申します。私も東京から来ました。あ、名刺お渡しします」遥香も挨拶をする。そして名刺を渡した。そこにもソラ猫がプリントしてある。 「え!ありがとうございます!いただきます!榎本遥香さん、よろしくお願いします。就活のときは相談に行きます」 「ぜひぜひ!わたし社長秘書やっているので、時間が合えば社長とも引き合わせることができるかもしれないので、遠慮なくどうぞ」 「ありがとうございます。ぜひその際はよろしくお願いします」酒井は礼を言って財布に名刺をしまった。 「ところで、七海さんはどこに行ってしまったんでしょうか?」遥香は周りを見渡す。 「ベンチで待っててと言ったのにな、何があったんだろ?」酒井の言葉に遥香はドキッとなる。きっと美月さんがスーツケースに無理やり触ったりしたんだろう。好きなものが目の前にあると周りが見えなくなるから。七海さん怖くなって逃げたに違いない。 「榎本さんが拾った物って何だったんですか?七海さんのスーツケースから落ちたって」 「コンパスです。コンパスがベンチの下に落ちてたんです」羅針盤と言おうとしたが、きっと伝わらないと思いコンパスと言った。 「七海さん、地図を持っていました。地図とコンパス、旅をするには両方とも必要ですもんね。コンパスないと困るんじゃないかな」酒井は七海がコンパスで行くべき方向を見定めている姿を想像する。その背景にはポルトガルと思われるヨーロッパの町が広がっている。 「ここに居ても仕方ないから、ベンチのところ戻りませんか?七海さんもコンパスを取りに戻ってくるかもしれないし」遥香は酒井に提案する。 「そうですね」酒井は遥香とベンチに引き返すことにした。 「実は社長と仕事で来てるんです。社長がベンチに座っていると思うので、酒井さんのことを紹介しますね。社長は学生の方とお話しするの好きな方なので」実際、美月は優秀な学生と話すのが好きだった。就活イベントでよく学生との懇親会に参加した。みんな美月さんのことが好きになり、優秀な学生がどんどん山岡銀行に入行した。 「本当ですか!ありがとうございます!」酒井は三度目のお礼を言った。 「あと、私のことは遥香でいいですよ。下の名前で、みんな呼ぶので」 「はい、遥香さん」    遥香は酒井と歩きながら、美月さんの言葉を思い出していた。 「私のことは美月で良い、社長ではなくて」美月は出会った当初にそう言った。遥香は黙ってうなずく。 「それで私は何と呼べばいい?あなたのことを」遥香は自分の下の名前を伝える。 「これからよろしくね、遥香さん」それは聞きなれた自分の名前ではないような気がした。もっと特別な記号のようなものに思えた。美月さんの前では、私などただの記号でもよい気がした。 「私にとって、あなたは必要なの。とてもとても」美月は遥香によくそう言った。あなたはただの記号ではないのよ…そう何度も言われているような気がした。 「遥香さん、こっちです」酒井の声が聞こえた。 「あ、ごめんなさい。ぼーっとしてた」  遥香と酒井はお互いに自己紹介をしながら、ベンチに戻った。
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