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第七章 海辺の塔
美月の意識が戻ってきた。美月は目を開ける。手元には羅針盤があり、「W」の文字を指し示している。足元には白っぽい石でできた地面が見えた。大きく平らな石の上に両足が置かれている。石?コンクリートではなくて?こんなところに石なんてあったかしら?
「やあ、お疲れ様。ちょうどお茶が入ったところだから、一緒にどうかな?」足元の石を見つめていると、声が聞こえた。そちらに顔を向けると、一人の青年がポットを持ってこちらを見ていた。そして、美月が今いる場所の詳細がわかってくる。足元にある大きな石が、壁にも張り巡らされている。美月は石で作られた部屋の中にいた。部屋の真ん中に置かれた木のベンチに座っている。壁にはちゃんと窓がいくつかある。青年の後ろにも窓があって、そこから淡い光が差し込んでいる。
あれ?私、旭川駅のバスロータリーのベンチにいたはずじゃ?ちゃんと青空が見えていた。部屋の中じゃなかった。石なんてなかった。ここはどこだ?
「えっと、ここはどこですか?」美月は立ち上がり青年に向かって尋ねる。
「どこってポルトガルだよ。ポルトガルのロカ岬。ユーラシア大陸で最も西にある岬だよ。そこに建てられたヘピュタ塔の中にいる」驚く美月を尻目に、青年は冷静にポットから茶色い液体をカップに注いだ。
「ポルトガル?」日本の北海道の旭川にいたはずだ。
「まあ、とりあえずお茶でも飲みながら話をしよう。美味しいガロットが入ったんだ。ミルクを少し多めにしたから女性の口にも合うと思うよ」そう言ってカップを美月の前に置く。
「ガロット?」見た目は薄茶色の液体だ。コーヒーのようだった。
「まあ、飲んでみてよ」
美月は言われるがまま、一口すする。味は温かいミルクコーヒーだった。ただコクがとても濃い。それがミルクで上手く中和されていて、とても美味しい。美月は何度も口に入れる。動揺していた心が落ち着いていく。
「気に入ってもらえたようで光栄だよ。うん、美味しいね。今日のガロットは特別うまくできた。本当ならお菓子もあったんだけどね、それは昨日ここに来た女の子にあげちゃったんだ」
落ち着いて青年のことを美月は観察する。白いシャツに、黒いズボン、そして革でできた長いブーツを履いている。髪はボサボサで、ヒゲが少しだけ生えている。二十代後半ぐらいだろうか?西洋人のようだけど、とても野暮ったい顔つきだった。ヨーロッパの貴族なんかでは決してなさそうだった。
「あなたはポルトガル人なの?」美月は青年に尋ねる。
「そうだね、ポルトガル生まれポルトガル育ち、ポルトガル純粋培養だね」
「日本語がとても上手なのね」
「僕のご先祖様は日本人なんだ。日本から来てポルトガルに住み着いた。ポルトガルの文化に身も心も染まっていったけど、日本人としての魂みたいなものは先祖代々受け継がれた。だからちゃんと子供に日本語も教えるし、日本にだって連れて行ってもらうんだ」
「あなたも日本に来たことがある?」
「ああ、行ったよ。小さい頃に親に連れられてね」そう言って、青年は美月が持っている羅針盤に目をやった。一口ガロットをすすってから、美月に尋ねる。
「それで君はどうしてポルトガルに来たのかな?ここにいることに、とても驚いていたようだけど」
「私、これをたまたま拾って、ベンチに座っていたらここにいたの」美月は羅針盤を青年に見せる。
「なるほど、ここに来たのは君の意志ではないんだね。その羅針盤には見覚えがある。ちょうど昨日ここに来た女の子が持っていたものだよ。僕がお菓子をあげた子だ」
「その子は、ここから日本に行ったの?」
「そうだよ、羅針盤を持ってこの塔に来る。そうすれば日本に行けるんだ。帰ってくるときはその逆だね。先祖代々みんなそうやって来たんだ」
「茶色い革のスーツケースを持っていなかった?」
「ああ、持っていたよ。すごい荷物だねって言ったら、あっちで舞踏会があるかもしれないからって。ねえ、日本にも舞踏会なんてあるのかな?」
美月はそれには答えない。私が追いかけた女の子はポルトガルから来た?この羅針盤で?そんなことありえない…そう思っても現に私はここにいる。
「あ、船が帰ってきた!」青年は窓の方に立って、外を見ていた。
美月もそちらに行って窓の外を見る。外は一面の大海原だった。吸い込まれるような地平線が広がっている。そして太陽の光が水面をキラキラ輝かせている。そして一隻の船が近くを通っている。
「あれはヨット?」美月は思わず口に出す。
「ヨット?何だい、それ?あれはキャラベル船だよ。あの帆に風を受けて風の力で前に進むんだ」大きな帆を二枚広げ、風を受けて船は進んでいた。鳥が空を飛ぶように。それに呼応するように、美月が持っていた羅針盤の針はクルクル回り始めていた。
「あの帆船で海の向こうの新大陸まで行くんだ」
「新大陸?」
「ああ、新大陸には広大な大地があって、そこで色んなものが作られている。そのガロットに入っている砂糖も新大陸で作られたんだよ。その砂糖をたくさん使って、僕はお菓子を焼くのが好きなんだ」
海から風が吹いて、青年の髪の毛をなびかせる。ごわごわした髪が少しだけ揺れる。
「ところで、君は日本で何の仕事をしているの?」
「私?私は銀行を経営しているの。おじい様から引き継いだの」美月は正直に答えた。
「銀行家か、すごいな!じゃあ投資とかにも詳しいの?」
「まあ、証券部門もあるからね」
「今さ、イエズス会の神父様から投資しないかと誘われてるんだ。砂糖や綿花を生産して貿易もする総合会社を新大陸に創設するらしいんだ。そこに投資しないかってさ。これって成功すると思う?」
美月は別のことを考えていた。それはもちろんスーツケースの女の子のこと。あの子はどうしてポルトガルから日本に来たのだろう?舞踏会って何だ?…ダメだ、不思議なことが多すぎる。羅針盤に、高級なスーツケース…あの子に会って、直接訊くしかない。あなたは何しに日本に来たの?って。
「私、日本に帰らなくちゃ。帰り方を教えてくれないかな?」
「もう行くのかい?せっかくポルトガルまで来たんだから、ゆっくりしていけばいいのに」
「ありがとう。まだ仕事が残っているの。突然来ちゃったから、友達も心配していると思うし」
「そうか、それは仕方ないね」青年はそう言って、美月が座っていた木のベンチを指さす。
「帰り方は簡単だよ。来るときの逆をすればいい。あそこに座って、羅針盤を両手で持つ。そして呪文を唱える。来たときと同じ呪文だよ。もちろん呪文は知っているよね?ここまで来られたんだから?」
呪文…私が旭川のベンチで唱えた言葉は一つしかない。「大丈夫よ」美月はそう答える。美月はベンチに座り、羅針盤を両手で持つ。「空気が変わった。そのとき自身の心に従うべきだ。そこに進むべき道があるから」あのときと同じ赤松の言葉を復唱する。クルクル回っていた羅針盤の針はカチッと止まる。その瞬間、美月の意識は遠のいていく。
「またおいで。僕は毎日のようにここにいるから。次はお菓子をごちそうするよ」遠くに青年の声が聞こえた。「ありがとう。必ず来るわ」薄れゆく意識の中で、美月はそう答えた。
「美月さん、美月さん!」美月の意識が戻ってくると、聞き慣れた声が聞こえた。目を開けると、遥香が顔を覗き込んでいる。
「こんなところで寝てたら風邪ひきますって」
「そうね…って夏だから大丈夫でしょ!」北海道とは言え、八月の昼頃は26度まで気温が上がる。
「そうなんですけど、何か羽織ってくださいよ、ここ日陰になってるし、たまに冷たい風も吹いてくるし」
それを聞いて美月はノースリーブのブラウスの上にカーディガンを羽織った。
「それで、あの子は見つかったの?」
「それが、途中で見失ってしまって…」遥香が言いにくそうにモジモジしていると、後ろから酒井が口を挟んだ。
「角を曲がると、いなくっていたんです。跡形もなく、煙のように消えていたんです」
「あなたは?」美月は酒井の方に目をやる。
「あ、紹介します。酒井さんと言って、あのスーツケースの女性を案内されてたそうです」
「飲み物を買いに行ったら、どこかに走って行くが見えて…」酒井は七海を追いかけ、遥香と出会う経緯を説明した。そして、遥香にしたとき同じように、美月にも丁寧に挨拶をした。「よろしくお願いします!」と就活の面接のようにお辞儀をした。
「よろしくね、酒井さん」美月は手を差し出し、酒井と握手をした。この握手で、みんな美月の虜になった。さっきまでホットのガロットを握っていたから、美月の手は温かった。温かな手のぬくもりが酒井に伝わる。
「酒井さん、どうして七海さんがポルトガルから日本に来たか知っている?」美月は酒井に尋ねる。
「ポルトガル?」遥香は首をかしげる。
「七海さんはポルトガルから来たんです」酒井は遥香に言って、美月の方を見た。
「知っています。けど、ちょっと長い話になります」
「そう、じゃあどこかでお昼でも食べながら教えてちょうだい。さっきポルトガルのお菓子も食べ損なったところだしお腹すいたわ」時間はもうすぐ十二時になろうとしていた。
「ポルトガルのお菓子?」遥香はまた首をかしげる。
「牛肉が食べたいわ。表面をしっかり焼いたやつ」美月が遥香に言う。
「私、肉苦手だって言ってるじゃないですか~それより海鮮にしましょうよ!」遥香は美月に言った。
「僕、ラーメンが食べたいです。朝にソーセージ食べたので」酒井がそう言うと、美月はある建物を指さした。
「じゃあ、あそこのフードコートで好きなもの食べましょ。そっちの方がゆっくり話せそうだし」美月はイオンモールを指さした。
「異議なし!」遥香と酒井は同時にそう言った。三人はイオンモールに向かった。
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