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第九章 イオンモールの昼食
フードコートはイオンモールの一階にあった。夏休みかつお昼時だからだろう、学生のグループや家族連れで大変混みあっていた。お店が連なっているエリアから遠く離れた壁際の四人掛けの席に美月たちは座った。お店を見回すと、肉も海鮮もラーメンも全て食べることができそうだった。
「僕ここで席取りしているので、お先にどうぞ」酒井がそう言うと、美月と遥香は礼を言ってそれぞれのお店に向かった。
待っている間、七海らしき人はいないか見回してみるが、全くそれらしき人はいなかった。フードコートの中でたくさんの人に囲まれていると、七海がいかに普通ではないかが分かった。着ていた白いブラウスには小さく目立たない刺繍が施され、緑のスカートには少しだけ光沢があった。このフードコートに溢れている化学繊維が作り出したものではない、もっと品がある素敵なものだった。もちろんあの革のスーツケースは今更言うまでもない。ブランド品なんて全く興味がない酒井でも、高価なものであることは一目でわかった。そして七海の一つ一つの所作が特に洗練されていた。必ず両手を膝に上に置き、顎を引いて姿勢がよい。笑うときや食べるときは、左手で口元を隠した。決められた正しいポジションに手足を持っていく姿は、一流のバレリーナのようであった。そんなバレリーナのような人間は、フードコート内には一人もいなかった。目が届く場所にいれば、すぐに彼女だとわかるのだ。酒井はそう思い、目線をテーブルの上に落とした。
「まさかこんなに大きなステーキが食べられるとは思ってなかったわ」美月が鉄板の上にこぼれそうなほど大きなステーキを乗せて、席に戻ってきた。
「やっぱり海鮮ですよね~」遥香もお椀からエビが飛び出ている海鮮丼を持って、席に戻ってきた。
二人が戻ってきたので、酒井はラーメンを注文しに行く。もちろん旭川ラーメンに決まっている。魚介、豚骨、鶏ガラで出汁を取ったスープと縮れ面が最高なのだ。いつか七海にも食べてもらいたい。どのように麺をすするのだろう。きっと綺麗な所作で食べるに違いない。そんなことを思いながら、列に並んだ。
「遥香、三人分のコーヒーを買ってきてくれる?」三人が食べ終えるのを見て、美月は遥香に言う。
「酒井さんもホットのブラックでいいですか?」酒井は無言で頷く。美月はいつも食後にホットのブラックコーヒーだった。苦味とコクがあるコーヒーほど美月は喜んだ。遥香は席を立ち、なるべく美味しいコーヒーが売っていそうなパンコーナーに向かった。
「あの子から聞いたかもしれないけど、私たちは仕事でここに来たの」美月はまっすぐ酒井の目を見た。「はい…」美月の綺麗な目で見つめられると緊張して何も言えなかった。遥香がいときに感じた穏やかな空気感が、冷たい空気に変わっていた。
「ど、どんな仕事内容なんですか?」やっとの思いで酒井は口を開く。
「それについても遥香が戻ってきたら話すわ。その前に七海さんのことを先に教えてね」酒井は黙って頷く。酒井と美月は黙ったまま遥香の帰りを待った。
「とりあえずブレンドにしておきました」遥香が帰ってくると、また穏やかな空気が流れた。酒井は久しぶりに呼吸できたような気がした。
「ありがとう」そう言って、美月は優雅に一口すすった。ブラックコーヒーはとても苦い味がした。ミルクが入ったガロットの味が少し懐かしくなった。
「さて、話してもらえる?七海さんのことを」美月はまた綺麗な目で酒井を見つめた。
「なるほど、七海さんはポルトガルから願いを叶えてくれる蛇に会いに来たのね。とても興味深いわ」美月はウンウンと頷きながら言った。酒井は七海から聞いたことをかいつまんで話した。七海がポルトガルから来たこと。ポルトガルはスペインから侵攻されようとしていること。ポルトガルを救うために不思議な蛇に会いに来たこと。そして蛇に会いに行く途中で、旭川駅に立ち寄り七海が逃亡したことを。
「蛇の場所はわかっていたんですか?」遥香が酒井に尋ねる。
「はい、七海さんが地図を持っていたので。地図に星マークが記されていて、その星マークに向かっていました」
「星マーク?」美月は自分が持っている地図にも星マークがあったことを思いだす。「この星マークあたりに宝石がある」赤松にそう教えられた。だから美月たちはその場所を目指していた。
「その地図って、これに似ていた?」美月はテーブルの上に赤松からもらった地図を広げる。赤松の手書きの線が広がり、左上あたりに星マークが描かれている。ほとんど七海に見せてもらった地図と似ていた。ただ、何かが違う。
「この蛇行している線は川だと思います。このあたりだと石狩川ですね。七海さんの地図だと星マークが石狩川の上にありました。でも、この地図だと石狩川の下に星マークがあります」そしてもう少しだけ左の方に星マークがあったように記憶していた。
「星の位置が少しだけ違うということね」
「やっぱり宝石と関係ないんですかね」遥香がそう言うと、美月は首を振る。
「でも、他はほとんど同じなのよね。何か引っかかるわ」地図が似ていることだけではない。七海という女性が言っている不思議な蛇の話、赤松が話してくれたしゃべる熊の話、どちらも非現実的でファンタジーのようだ。ただ、ついさっき私自身も不思議な体験をしたのだ。羅針盤でポルトガルの塔に行ったばかりなのだ。
「酒井さん、私たちは宝石を探しに来たの」美月は全てを話そうと決めた。話さずにはいられなかった。「この地図の星マークのところに、誰も見たことがない宝石が埋まっていると友達が教えてくれた。私はそれを探しにここに来たの」そして、その途中で七海さんを見かけた。七海さんが持つスーツケースがとても素敵だったから、彼女に話しかけようとしたら逃げられてしまった。そのスーツケースから落ちていたのが、この羅針盤だ。そう美月は話した。
「美月さんは美しいものを見ると、居ても立ってもいられない性格なんです」遥香がそう言うと、酒井は納得した。
「それで、美月さんのお友達は、熊からその宝石の場所を終えてもらったんですよね?北海道の山の中で言葉を話す熊に遭遇して、宝石の場所を教えてくれたって」遥香がそう言うと、「言葉を話す熊?」酒井は目を丸くして驚き、「そうよ」と美月は冷静に答えた。
「願いを叶えてくれる蛇に、言葉を話す熊、僕らは奇妙な世界に迷い込んでしまったんでしょうか?」
「いいえ、これは現実よ。現実の世界なの。目を見開いて前に進むしかない」美月はそう言うと、コーヒーをすする。沈黙の冷たい時間が流れる。
「とりあえず、この地図の星マークに向かいませんか?もしかしたらそこに七海さんもいるかもしれないし」遥香が沈黙を破る。
「そうですね、僕の見間違いで同じ場所を指しているかもしれませんし」
「まずは宝石を手に入れましょう。それから七海さんを探してあのスーツケースを譲ってもらう。そういうことで決まりね」美月はコーヒーを一気に飲み干した。それに圧倒されるように遥香と酒井もコーヒーを飲み干した。
「私、大学の卒業旅行でスペインに行ったんです」遥香は車を運転しながら話し始めた。
「二、三年前の話ですけど、スペイン国内をバスツアーで一周したんです。主要都市を北から南まで周りました。バルセロナ、マドリード、グラナダ、コルドバ…どこに行っても食べ物が美味しくて建物が綺麗で平和で楽しい町でした。だから、あのスペインがポルトガルに侵攻しようとしているなんて、うまく信じられないんですよね」
「しかもそんな国際ニュース聞いたこともないし」美月の仕事は銀行経営だ。国際情勢が不安になれば金融も経済も大きく動く。だから常に国際ニュースには目を光らせているが、スペインとポルトガルが戦争状態にあるなんて聞いたこともない。
「カタリーナ王女様、七海さんはその人に頼まれたと言っていました」酒井は後部座席から言った。
「今、調べたんだけど、ポルトガルのカタリーナ王女様って、十七世紀に生きたと書いてあるけど、それで正しいの?」美月はスマホを見ながら言った。
「十七世紀ならスペインとポルトガルが戦争状態にあったことは辻褄が合います。大学の授業で習ったのを覚えています。スペインはポルトガルの領土を併合し、イベリア半島統一を狙っていたと」遥香が前を向きながら言う。
「カタリーナ王女様はイギリスに嫁いだと書かれていますか?」酒井は美月に尋ねる。
「ええ、そう書かれているわ。イギリスの支援を取り付けるためにイギリス王室に嫁いだと記載されている」
「七海さんが言っていた通りだ。やはり七海さんは十七世紀のポルトガルから来たんでしょうか?」
酒井の言葉に美月は動揺していた。やはり私が羅針盤で連れていかれたあの塔は十七世紀のポルトガルだったのではあるまいか。だからあんな帆船(キャラベル船とあの青年は言っていた)が走っていた?それだけじゃわからないけど、七海さんはあの羅針盤を使って十七世紀のポルトガルから日本に来たのだとすれば…すべての辻褄が合う。そのことを二人に話そうか迷ったが、今はまだ早いような気がした。また、そうだとすれば、ここに羅針盤がある限り七海さんはポルトガルに帰れない。ということはまだ七海さんはこの北海道のどこかにいる。
「やはり七海さんを見つけるしかなさそうね。見つけてこの羅針盤を返さなくては」美月は前を見据えてはっきりそう言った。それを聞いて遥香はアクセルを少しだけ強く踏んだ。
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