神様、この胸のどきどきは

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神様、この胸のどきどきは

 大広間の喧噪を離れて、私はバルコニーでひと息ついていた。  庭園に広がる薔薇園が見え、夜気に乗って香りが届く。  王妃様はあれからエステル様をはなさず、ずっと話し込んでいる。  やりきった、という心地よい疲れが私を包まれていると、背後から声をかけられた。   「ここにいたのか」  アラン様だ。  今日は私たちをエスコートするから、髪をなでつけ、夜会服に身を包んでいる。  馬車の中ではずっとそっぽを向かれていたし、私も作戦がうまくいくかどうか心配で緊張していたから、まじまじと見るのは今が初めてだ。 「推しの新規絵……」 「なにか言ったか?」  ああ、いけない。また考えていることが口から出てしまった。これだから中年は。 「なんでもないです」  アラン様はちょっと訝しげな顔をしていたけれど、すぐにあらたまって言った。 「今回の件、なにもかも君のおかげだ。あらためて礼を言う。……ありがとう」  私は静かにかぶりを振る。 「いいえ。エステル様の実力あってこそですよ」  エステル様、実は王妃様が次に注目しているであろう国を予想して、勉強していたらしい。挨拶のあとなにか囁いたのは、その言語での挨拶だったのだ。  そりゃあぐっと心も掴むというものだ。私の縫ったドレスなんて、あくまできっかけに過ぎない。 「それにしても、あれは見事だ。あんなふうに少しだけ覗かせて、逆に目立つなんて……」  私は肩をすくめた。  敢えて地味に作って、ちょっとだけ派手な色を見せるというのは、元々日本に昔からある発想だ。  秋冬の着物を仕立てるとき、八掛けという生地を袖や裾の裏地として縫い付ける。  この八掛の色、歩いたり、ちょっと腕を上げるといったふとした仕草のときに、ちらっとだけ見えるのだ。  想像してみて欲しい。  柔らかい色の和服に身を包んだ清楚な美人が、物憂げに髪を直す。そのとき袖口からはっとするほどの赤い色が一瞬だけ見える――   「どやあ!」「どやあ!」とデコルテを自ら見せていくのが普通な中で、エステル様のような真面目そうな女性が、ちらっとだけ派手な色を見せたら、逆に目立つ。  それでいて、王妃様の隣に控えているときには、王妃様のドレスのじゃまをしない。  センス自慢の王妃様なら、絶対に気がつく。そう踏んだだけのことだ。 「たまたまうまくいって良かったです」  和裁の知識は、他に選択肢を与えてもらえず、仕方なく覚えたもの。  今回はたまたまそれが役に立ったけど、和裁はつらい記憶とも直結している。  だからあんまりそこを褒められると、なんだか複雑な気持ちになってしまう。  ――ああ、また、ネガティブ。しかしこれが中年というものだ。許して欲しい。  大広間から曲が流れてくる。  人々が踊り始め、くるくる回ってるのが見える。こうなったらもう、エステル様のドレスの独壇場だろう。ひらりひらりと裾が舞う度、ちらちら刺激的な色が見える。大広間中の視線を釘付けだ。  そんな様子を思い描いていると、アラン様が言った。 「躍らないのか?」 「いやあ、いいです。私、ダンスなんて躍ったことないんで、迷惑かけちゃうし。私、ひどい顔してますし……」  大広間は、コネを作りたい人やらお相手を見つけたい人やらの真剣な戦場だ。意気込みも化粧もばっちり決めた人たちの中へ、クマも隠しきれていない私ごときが冷やかしで入っていくのは気が引ける。  日本の中年女性で、ひらひらドレスの舞踏会に憧れたことがない人はいない。そういう意味で惜しい気はするけれど―― 「では、ここで躍ろう」  アラン様はおもむろにそう言うと、私の手を取った。 「え――」 「音楽に身を任せているだけでいい。――どうせここには、他に誰もいない」  他に誰もいない。 「見てる人がいないから、失敗してもみっともなくない」という意味なんだろうけど、至近距離で囁かれると、なんか、こう。  夜気に紛れて、薔薇の香りが届く。  すぐそばの大広間には人が溢れているのに、バルコニーは私とアラン様ふたりきりだった。  アラン様のリードはやさしかった。  やっぱり、大前提として育ちがいいんだなあ。一見脳筋に見えて、実はダンスもできるなんて、ますます推せる。  そんなことを考えながらどうにか躍っていると、曲が終わった。  ちょっと惜しいような気もしたけれど、私は動きを止めた。やっぱり、コルセットをきゅうきゅうに締めた状態で長時間動き回るのはきつい。 「アラン様、私ちょっと一休み――」  ところが、すぐに次の曲が始まって、アラン様は私をぐっと抱き寄せた。  虚を突かれ、面を上げると正面から目が合った。  瞳の中には、閉じ込められたように映り込む、私の姿。 「ローズ。君は、美しい」  アラン様の背後には月。  夜気にのって香る薔薇。  ただでさえコルセットで締め上げたお腹が苦しいのに、胸までどくどく脈打って、きゅううっと引き絞られるように痛くなる。  神様、これって――  更年期、ですか?  「うっ――」  私は思わず呻いて、その場にしゃがみ込んだ。 「ローズ? どうした、具合が悪いのか」 「ちょっと、胸が……」 「胸が? ――医者を呼んでくる。ここで待っていてくれ。すぐに戻る」  アラン様は険しい顔つきになり、駆けていく。  私の心臓は、相変わらずきゅうきゅうきゅうきゅう締め付けられている。  あれ? 本当に更年期? おかしいな。中身は中年だけど、体はぴちぴちの十七歳のはずなのに。  ああもう、明日になったら、この世界の命の母的なものを探そう。基本漢方なんだから、似たような薬草くらいあるだろう。  私がとりあえずそう方針を決めたところで、ぱたぱたと慌てた足音が聞こえた。エステル様だ。 「お兄様が、ローズが急に胸を押さえて苦しみだしたから、ついててやってくれって。今、お医者を呼びに行ってるわ」 「そんな、せっかく王女様のおそばにいられる機会なのに」  この兄妹、ほんとにお人好しである。激しい派閥争いの中で生き残れるのか、私の方が心配してしまう。  そういえばさっきアラン様私に「美しい」とか言ってたな。  きっとあれも私が「ひどい顔」とか言ったから、気を遣わせてしまったに違いない。  うっ。若い頃、そういうめんどくさいおばちゃんにだけはなるまいと誓っていたのに。穴があったらかがりたい。じゃなかった、入りたい。  ひとり青くなったり赤くなったりする私に、エステルは誇らしげに顔を輝かせた。 「大丈夫。今お約束いただいたわ。明日、九時にあらためて訪ねてくるようにって。そこで正式に契約のお話をしましょうって」 「本当ですか?」  私はがばっと起き上がった。 「ちょっと、胸が苦しいのに、そんなふうに急に動いたら駄目よ」 「あ、そうだった。エステル様がお仕事を得られたのが嬉しくて、私」 「ああ、ローズ……」  エステル様は、泣き笑いの顔で私の手を握った。 「あなたって、なんていい人なの」 「そんなことないです」  前世の自分の悲惨な就職活動と重ね合わせているだけです。  という言葉を飲み込んだところで、私は気がついた。 「――ん?」 「どうしたの? ローズ」 「胸、苦しくない」 「本当? 無理をしているのではなくて?」 「本当本当」  私は心配顔のエステル様にそう告げると、立ち上がって見せた。その場で、くるんと回る。  やっぱり、全然平気だ。 「さっき苦しくなったのは、アラン様と躍ったからかな……?」  やっぱり、ゆったりとしたダンスだったとはいえ、慣れないコルセットに慣れない動きをしたのが良くなかったのかもしれない。そもそも寝不足だし。  エステル様が、長い睫に縁どられた目をしばたかせた。 「躍ったの? お兄様と?」 「え? ええ、まあ、ちゃんとしたのじゃなくて、真似事程度ですけど」  しまった。今日は頼まれてついてきたけれど、本当なら私と舞踏会なんて縁のないところだ。  やっぱり身の程知らずだっただろうか。でも、だって、やっぱりせっかくドレスを着ているからには、ちょっとひらひらくるくるしてみたい気持ちもあったんだもん!  青ざめる私に、なぜかエステル様はにこにこしている。 「そう。まあ、でも、とりあえずここでお兄様とお医者様を待ちましょ。――お医者様は必要ないかもしれないけど」 「? え、ええ、はい」  含みのある口調が気にはなるけれど、とりあえず同意する。  そのときだった。  がさがさっと薔薇の茂みが揺れ、黒づくめの人影が現れたのは。  黒い影は、背後からエステル様に襲いかかり、口元を押さえた。エステル様は手足をばたばたさせて抵抗する。 「ロ……!」 「エステル様っ! 誰か!!!!」  大声を上げたけれど、大広間の人たちはダンスに夢中で気がつかない。もっと大きな声で叫ぼうとしたとき、私も背後から口を押さえられてしまった。  怪しい奴は、複数人いたのだ。   次の瞬間、頭を殴られて、私の意識は遠のいていった。
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