痛くないって素晴らしい

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痛くないって素晴らしい

私ことローズの一日は、住み込みで働いているレストランの二階で始まる。 「っか~~~、ふあーあーっと」  与えられた一人部屋。誰もいないのをいいことに、私はベッドの上で大口を開けてあくびした。 それから、にへっとだらしない笑顔になってしまう。 「一日中ウエイトレスの立ち仕事したのに、体がどっこも痛くないって、さいっこー!」 手足をばーん! と広げて口にしたあと、ベッドの上でごろんごろんと転がる。 「寝付きが悪いってこともないし、なにより夜中トイレにも起きない! 十七歳の体すごーい!!!!」 なにを言ってるんだと思うかもしれないが、なにを隠そう私、ついこの間までアラフィフだったのだ。 前世の日本での名前は「春花」。そして仕事は、和裁士だった。 和裁士って、わかるかな。 着物を仕立てる人のこと。要するにお針子さん。 私の実家は、銀座で長く続く呉服屋だった。 お店は兄が継ぐことになっていて、私は高校卒業と同時に同業者のおうちの若旦那に嫁ぐことになっていた。その準備として、高校生のうちから和裁も習わされていた。 せめて短大なり、専門学校なりに行ってから――という私の提案は、あっさり却下された。 「だめだめ。あんたは見た目だってよくないし、他に取り柄もないんだから、手に職つけなくちゃ。せいぜい仕立てであちらのお店の役に立ちなさい」  着物雑誌にしょっちゅうモデルとして掲載されていた母の言葉。 母の容姿を受け継いで、スーパー高校生なんて騒がれていた兄は、一緒になって笑っていた。 当時はうちも婚約者の家も景気が良かった。高級クラブや歌舞伎座が存在する、銀座という立地も良かった。 着物ブームが起き、販売会を開けば、一反何十万もするような反物が飛ぶように売れ、私は着物を仕立てまくった。お仕立て代はもらえなかった。  ところで。 ブームは、やがて去るからブームという。 見せかけの好景気が弾けると、売り上げはじょじょに減っていった。 当然だ。 人は、懐が淋しくなればまず生活必需品でないものから削っていく。 日常着でない和服なんてその最たるもの。あっという間に注文は減り、店は傾いた。 毛の先からつま先までどっぷりバブルに浸かって育った兄は、最後に店に残っていたお金を持ってとんずらした。 可愛がっていた兄に裏切られ、父と母は体調を崩して相次いで亡くなった。 婚約は当然破談になった。  私のもとに残されたのは、両親の保険金でまかなってもなお返済しきれなかった借金のみ。  そうして、和裁しか知らない私は、突然働くことになったのだ。 その頃、世はいわゆる就職氷河期。 どうにか派遣OLになったものの、残された親の借金を返すのと、日々の生活とで精一杯。婚活なんかする余裕もないまま仕事を転々とし、気が付けばいつの間にか四十代になっていた。 そしてつい最近、派遣の仕事も突然雇止めされてしまった。 築四十年のアパートに住み、他にできることもないので、ちまちまと仕立ての仕事で食いつなぐ日々。 「ふー……」 仕立てのお品物を納品した帰り道で、私はため息をついていた。 仕立ての仕事は、以前から付き合いのあった他の呉服屋さんから回して貰っている。うちと違って堅実な経営をしているお店だったから、浴衣のシーズンなんかはフルで働かせて貰って、とても助かっていたのだが。 そのお店の女将さんが申し訳なさそうに言うことには―― 『ごめんなさいねえ。うちもついに仕立ては外国に出すことになったの』 「まあ、そうなるわよね……」  私はとぼとぼと歩きながら呟いた。 他のお店だって、うちと違って真面目にやっていたからどうにか回っているだけで、着物業界はもうずっと斜陽なのだ。少しでも安くあげようと思ったら、安い労働力に頼るしかない。  でも、日本のお針子さんだって、凄く高いわけじゃないのよ?  むしろ、とても安い。  工賃は完全に歩合制だ。一枚仕上げていくら、という計算。  浴衣なら一枚一万~二万円。  一般的に「着物」と聞いてイメージする小紋で二万~三万。  成人式に着るやつ、いわゆる振り袖なら四万~五万。  結構貰ってるって?  いやいや、振り袖なんて今はもう一月に一件入ればいいほうだ。 私の持ちうる技術力・体力・気力総てを費やしても、四日か五日はかかる。つまり日給一万円。普通にOLさんやったほうがずっといい。 当たり前だけど、仕事が毎日入るわけじゃない。営業先も限られている。高価なものになればそれだけお仕立代も上がるが、それだけにミスがあっては信用問題に関わるから、私よりもっと年配のベテランさんがとっていく。  また、ため息。 「ああ、やっぱり和裁だけじゃなくて簿記とかパソコンとか勉強しておけばよかった……でもやったところで就職氷河期だったんだよね」  氷河期世代。なんだろう、この、見るから寒々しい感じ。ほかはゆとりとかZとか、ここまでずばり心が凍り付く呼び名じゃないのに。 好きでそこに生まれついたわけでもないのに、酷くない?  もはやため息の連打。その度元気も気力もしゅうしゅう抜けて、お祭り翌日の風船みたいにしおしおだ。 「ま、しょうがない。なんとかなるでしょ」  私は心の風船が完全にぺちゃんこになる前に、自分で自分に喝を入れて面を上げた。 感情の浮き沈みが激しいのは、そろそろ更年期だからだろう。そっとしておいて欲しい。 「昨日の続きでも読も」  ちょうど交差点の信号が赤になったところで、私はバッグからスマホを取り出した。ネットで連載されている小説を読むのだ。  私がちくちくと着物を縫っている間に世の中は大きく変わり、ネット上で読める小説がもの凄く増えた。しかも無料。お金のない私には最高の暇つぶしだ。いつかスマホの使用料さえ払えなくなるかも知れないなんてことは、今は考えないでおく。  別に内容なんてなんでもいいんだけど、ちょうど最近読み始めたやつがあったはず。どうやら十八世紀のフランス(たぶん、マリー・アントワネットとかの頃よね?)をベースにしてるらしい、異世界ファンタジー。  異世界ファンタジーはいい。 どこもかしこもきらきらぴかぴかして、現実のつらさを忘れられる。 正直、この存在を知ってから、年甲斐もなくかたっぱしから読みまくっている。なんといってもただなのが有り難い。 「んーっと、あー、最近急に目が悪くなったのよね……」  私はスマホを近づけてみたり遠ざけてみたりする。そう、長年細かい物を縫ってきたせいと、最近ウェブ小説にはまったせいで疲れ目が――いや、正直に言おう。老眼なのである。だって、アラフィフなんだもん。 「私もいよいよサー・ローガンの忠実なるしもべかあ」 「老眼鏡作らなきゃな」というだけのことを、ちょっと異世界風に言ってみた。  それはさておき、続きを読もう。 「続き、続き……」  考えていることがいつの間にか口に出てしまうのも、アラフィフだから許して欲しい。  夢中でスマホ画面に自分のピントを合わせていたから、とっさによけられなかったのだ。  老人の運転する高級車が突っ込んでくるのを。 『危ない!』  誰かが叫ぶ声と、それに続く悲鳴を聞いたような気はする。  詳細はわからない。目覚めたら自分のアパートでも、病院でもない、固いベッドの上にいた。 なんとなく、窓から差し込む日差しの気配から察するに、時間帯は朝。 でもちょっと薄暗い。 「電気電気……」と呟いて、気がついた。 天井に照明器具らしき物がない。 あるのはベッドサイドのちびた蝋燭。よく見れば、漆喰の壁も、木製の窓もドアも、真鍮の取っ手も古びている。明らかに私の部屋でも、病院でもない。  しかし、そこは無料をいいことに異世界ファンタジー小説を読みまくっていた私である。すぐに雷に打たれたように悟った。 「こういうの、五十六億七千万回見た!!!!!!!!」  私は、直前まで読んでいた小説の世界に転生したのだ。  とりあえず、部屋にあった服に着替えて階下に下りると、マスターと奥さんは私のことを「ローズ」と呼んだ。そして、その日のうちにウエイトレスとして働き始めたのだった。
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