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一目で恋に落ちた瞬間の表現に、雷や爆弾といった比喩を用いているのを何度か見たことがある。運命の相手に違いないと断定し、内面まで都合のいいように設定する。運命的な出会いになったり、錯覚であったりと行き着く先は様々だ。いずれもその場で直感が働き、好意を自覚し、一気に盛り上がる。びびっときたってやつ。
一目惚れとはそういうものであり、そういうものだと思っていた。
だけど俺が経験したのは、日をまたいでそうと気づいた一目惚れだった。
布から液体が染み出てくるのに似ていた。初期段階ではそうと気づかないほどゆっくりと、しかし確実に、彼女に対する想いは遅効性の毒のように胸から全身へと広がっていった。
一目惚れに分類されるか曖昧な部分があるのは否めない。でもその日のことは初めての経験として頭の奥底で眠っている。
あの人との出会いは高二の冬。期末試験終わりの帰り道でのことだった。
「終わったー」
チャイムの音とともにクラスの男子が大きく伸びをした。
期末試験の全日程がここに終了し、教室の空気が一気に弛緩する。
各列最後尾の生徒が解答用紙を回収し、教卓の上にまとめて提出する。俺はふうと息を吐き、ペンケースを鞄にしまった。
「遊び行こう」
「カラオケ行こうぜ」
「とりあえずファミレスでご飯しよう」
がやがやと、あちこちで遊びの予定が立っていく。みんな普段の放課後とは比べ物にならないくらい浮き立っている。その喧騒に胸がそわそわした。
午前で学校が終わる日の空気感って間延びしているのにどこか張りがある。明日からのことなんてどうとでもなりそうな無敵感がある。
「要ー」
横から声をかけられた。
「カラオケ行くけど一緒にどう」
歌いたい気持ちはあった。
でも。
「このあと予定あるんだよな」
「そっか残念。まっ、りょうかーい」
帰りのホームルームが終わり、テスト勉強の束縛から解き放たれた級友たちが弾けるようにふた手のドアへと向かう。なんのしがらみもなく目の前の光めがけて進む彼、彼女らを運動部の男子が恨めしそうに見ている。反対に、溌溂たる足取りで教室を出ていく運動部もいる。早く練習がしたくてたまらないって感じだ。
俺は廊下の喧騒が遠ざかるのを待って教室を出た。
「要くん」
隣の教室を通り過ぎようとしたところを呼び止められ、振り返る。
教室から出てきたのは芳野あおいだった。壁に肩を預け、体の前で手を組む。鎖骨まですとんと伸びる黒髪が扉側に流れる。
「テストどうだった?」
「結構できたと思う。芳野は?」
「わりとすらすら解けたよ」
「手応えあるんだ」
「いつもよりは。一緒に勉強したところまた出たね」
「出たね。ラッキーだった」
「次も一緒にしようよ、テスト勉強」
芳野たちの勉強会に参加したのは今回が二回目だった。脱線して遊び始めることはなく、苦手教科を教えてもらうこともできるのでなかなかに勉強が捗る。
「うん。またよろしく」
「こちらこそ」
「それじゃ、お疲れさま」
「帰るの?」
「うん」
「みんなと遊びに行かないんだ」
「ちょっと予定あって」
「そうなんだ。じゃあ駅まで一緒に行かない?」
「ごめん。駅行かないんだ」
芳野は瞳の奥を覗きこむようにほんの一瞬俺を見た後、体を起こした。毛先が鎖骨ラインで平行に揃う。
「そっか、わかった」
「うん。それじゃ」
別れようとすると、芳野が「ねえ」と言った。
「写真撮ろう」
「えっ?」
「嫌?」
「流れがよくわかんないんだけど」
「流れとかは意識してなかったな。まあ無理強いはしないけど」
「だったら」
「はい撮るよー」
隣に並び右腕を伸ばした芳野は楽しそうに言う。
シャッター音が鳴り、元の位置に戻った。
「ありがとう」
またね。胸の前で小さく手を振る芳野を肩越しに見ながら軽く手をあげる。背中に視線を感じつつ、俺は廊下を進んだ。
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