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 朝からどんより垂れこめた雲が街を覆っていた。  この日は二学期の最終日だった。前日から花屋さんに行くと決めていて、朝の身支度にも熱が入る。念入りに髪をセットし、傘を持って家を出た。  外は日暮れ時のように薄暗かった。  雨降る薄暗い日というのはよくないことが起こりそうなイメージがある一方で、思い返せば、そういう日は関わりのなかった人と話せたり、気になる人とほんの少し距離が縮まった記憶がいくつも出てくる。だから個人的には吉兆のイメージのほうが強かった。  学校の廊下にはすでに蛍光灯の明かりがついていて、見慣れた風景が妙に新しかった。すれ違う生徒たちもいつもと雰囲気が違って見える。平行世界にでも飛ばされたような感覚に、なんだか出会いの予感がした。  終業式の最中に降り始めた雨は放課後になっても止むことはなかった。  傘を差して駅に向かっていると風がびうびう吹き出した。前方からの強風に前髪がぶわっと持ち上がる。裏返りそうになる傘を寝かせ、盾のように構えながら進んだ。  駅に着いた頃にはズボンの裾がずぶ濡れになっていた。冷たくて気持ち悪くて、日を改めようかと弱気になる。  電車が滑りこんできた。窓ガラスが結露していて乗客がぼやけて見える。  ドアが開くとむわっとした空気とともに数人が降りた。乗りこむと、車内は風邪でももらいそうな空気が充満していて追い打ちをかけるように気持ちがふやけた。  電車に揺られながら心も揺れる。K駅で扉が開くと降車客につられるようにして意思の固まらないまま電車を降りた。 「あれ、要くん?」  声のしたほうへ顔を向けると芳野がいた。同じ電車に乗っていたらしい。そういえばこの駅から通っているんだったか。 「こんなところで珍しいね。どうしたの」 「ちょっと用事で。芳野は帰るとこ?」 「そうだよ。要くんはどこ行くの」 「えっと、まあいろいろと」  都合の悪い質問が降ってくる前に会話を切り上げる。 「それじゃまた」  手をあげ別れる。  構内のトイレの鏡の前に立ち……暗い気持ちになった。  雨風によるものだろう。髪がひどく乱れている。手櫛で整えようと試みるが、泣きたくなるくらいまとまってくれない。前髪なんて惨憺たる有様だ。  鏡に映るぐちゃぐちゃ髪のどこか情けない表情のこいつを見ていたら、お姉さんに会いに行かんとする気勢がへなへなとしおれていった。  お風呂に入ってリセットしたい。  もう今日を終わりにしたい。  今日は、帰ろう。  こんな状態で行ってお姉さんと目を合わせられる自信がない。こんな姿を見られたくない。  トイレから出る。屋根と地面を打つ雨音が構内を満たしていた。  雨脚がずいぶん強くなっているようだ。外を向いて佇む人の姿がちらほらあり、その中に芳野を見つけた。傘は持っている。遠目には壊れてなさそうだった。  声をかけずにホームに戻ろうかどうか迷っていると、芳野が振り向いた。  理由も話さず再び電車に乗りこむのはさすがに感じが悪いか。  俺は芳野のもとへ歩み寄った。 「迎え待ち?」 「雨弱まるの待ってる」  この雨と風の中では傘もさほど役に立たなそうだ。 「要くんは時間とか大丈夫なの」 「実は用事なくなってさ。帰ることになった」 「そうなんだ」  一呼吸置いて芳野は言う。 「じゃあ一緒にお昼行かない?」  帰りたい。でも面と向かって誘われると断りづらい。どう断ろう。  芳野はじっと返事を待っている。  そんな芳野と、自分の姿が重なって見えた。 「いいよ」 「え」  芳野は心底意外そうに俺を見る。 「ほんとに?」 「うん。どこ行こう」  駅から近いほうがいいよねと芳野は言った。  雨は依然ざあざあと降りそそいでいるが横殴りの雨ではなくなっている。 「どうする、走る?」  俺は尋ねた。 「早く食べたい?」 「そんなことはないけど」 「だったらもう少し弱まるまで待ってたい」 「わかった」  芳野の隣に立ち、雨にけぶる街を眺めた。街灯の光が薄ぼんやりと浮かんでいる。駅前の停留所にバスが停まった。濡れた路面にヘッドライトの光が映る。街に滲む光は昼下がりの感覚を希薄にする。 「絶対断られると思った」  ぽつりと芳野が言った。雨混じりのシャンプーの匂いがふわりと香った。  お姉さんに断られる場面を想像したら断れなかったとは言えない。返す言葉が見つからず口をつぐむほかなかった。  雨音が支配する空間で耳を澄ませ、静かに前方を見つめていた。  お互い無理に話題を振ろうとはしなかった。空模様に反して心が穏やかになっていく。女友達と二人っきりの沈黙の中に居心地のよさを感じているのを珍しく思った。  やがてなんの前触れもなく小雨になった。 「行こっか」  芳野が顔だけをこちらに向け言った。 「うん」  電車の到着を知らせるアナウンスが流れるのを背中に聞きながら、傘を開く。芳野が一足先に軒を出た。どことなく、初めて長靴を履いて外に出る子どものようだった。
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