テンポ・ルバート

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 とある市民オーケストラ団の楽譜保管倉庫で、一人の男が声を上げた。 「ない! ないよ! どうしよう!」  青ざめた顔で「ない、ない」と連呼する男に、何事かと一人の女性が駆けつける。 「片桐君? どうしたの? なにがないの?」 「あ、清水さん。楽譜がないんです!」 「楽譜?」 「はい。楽譜の整理をしていたんですけど、管理表に書かれた数と楽譜の数が合わないんです」  片桐と呼ばれた男は分厚いファイルを女性──清水に見せた。全部で1,234部あるように書かれているが、どうやら一部足りないらしい。 「誰かに盗まれたんでしょうか……」 「ちなみになんの楽譜がないの?」 「それが、ひとつひとつ楽譜と照らし合わせてみないと分からないんです……」  片桐は半泣きの顔で清水を見た。その顔は捨てられた子犬のように助けを乞う顔で、こういう弱いものを見ると母性本能がくすぐられる清水は「手伝うから泣かないで」と片桐を抱き締めた。  このオーケストラ団体が所有する楽譜の管理をしているライブラリー係の片桐と、第一バイオリン奏者で演奏者側の代表であるコンサートミストレスの清水は付き合っていた。交際期間は三年にのぼり、お互い三十路を過ぎているため楽団内では『結婚は秒読みだ』と噂されている。ただ、二人は釣り合わないという声もチラホラ。片桐はライブラリー係だけでなく経理や総務も担当しており、楽器は一切担当しない、言うなれば裏方の事務員という肩書に対し、清水はオーケストラの顔ともいえるコンサートミストレスを担当し、指揮者からの信頼も厚くなによりバイオリンが上手い。コンテストで何度も入賞したことがあるほどの腕を持っていた。見た目も地味な片桐と見た目も華やかな清水。釣り合っていない二人がなぜ交際しているのか。それはこのオケの全員が疑問に思っていることである。
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