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「また明日」、その約束は果たされなかった。私が宮野さんの見舞いを拒否したのだ。両親は最初こそ「散々ご迷惑かけたのに」と説得したが、状況が状況だけに、最後の我儘になるかもしれないと受け入れてくれた。
お互いの為だと思った。私との別れが辛くなればなるほど、彼はまた死への渇望で苦しむと思った。最初の2、3日は受付で粘った様だが、何かを悟ったのか今は両親を通じて私の状態を聞いているようだ。
本当は、死にたくないと言いたかった。愛していると言いたかった。涙が止まるまで抱きしめて欲しかった。目覚めた時に隣にいて欲しかった。あのくしゃっとさせた顔で笑って欲しかった。名前を呼んで欲しかった。ずっと一緒にいたかった……
けど、全部全部飲み込んだ。私のことなど忘れてくれたらいいんだ…… そう強く願った。
入院して半月、私はベッドから起き上がるのも人の手を借りなければ出来ないくらいに弱っていた。
隣で母が新聞のクロスワードを解いている。一面には連続失踪事件の解決の記事が載っていた。犯人は私にも関わりのある人物だった。それは、あの出張買取店の店員だった。家具や家電の査定で家に上がった際の犯行。自宅には押し入った形跡がなかったので、外での犯行の線であらっていたことが犯人逮捕を遅せた。
「他人の命を奪うことで、生きている実感を味わいたかった」それが犯行動機だった。私が犯人を殺したら、生きた心地がするのだろうか。
二十歳の頃から眼鏡を掛けるようになった。視界がぼやけて褪せた世界が、涙で霞んで見えなくなった。
私が泣いているのに気づいた母が優しく背中をさすってくれる。何か気を紛らわせられないか、そんな気遣いが手にとるように分かる。
「あ、そうだ、しーちゃん。外出許可証もらってきたよ。川沿いの桜見たがってたもんねぇ」
以前何かしたい事は無いかと聞かれて、桜が見たいと言ったのを思い出す。「時間を巻き戻したい」以外の願いは無かったのだが、何も言わなければ両親を困らせると思って適当に応えたのだ。母は許可証に記入をするためのボールペンを探している。
「シャーペンじゃだめよねぇ。この辺にあったと思ったのに……」
「私の通勤バッグの内ポケットに入ってるはずだよ」
「そう? あ、本当だ。……あら、これ会社に提出するものじゃないの?」
一瞬時が止まったように感じた。母が内ポケットから取り出したのは、あのタイムカードだった。最終出勤日は3月26日の朝、ドキドキして早く目が覚めてしまったんだ、時刻は6時25分。間違いなく、私の生きた証だった。
私の人生そのものだった。
「ああ、それ」
窓の外に目をやる。ここの患者だろうか。腰の曲がった女性が花壇に水をやっている。
「捨てといて」
隣のアパートに咲いていた、あの椿に思いを馳せる…
「……もう必要ないから」
あの紅が
思い出せない……
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