10人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
退勤後スマホを忘れオフィスに戻ると、そこには一人イスに腰掛ける宮野さんがいた。手にはレモンサワーの缶が握られている。私と目が合い「あっ……」と彼の表情が強張る。高鳴った鼓動がサーッと引くのが分かった。居心地の悪そうな彼を見て、舞い上がっていたのは私一人だけなのだと気付かされる。あの夜私は、彼に見放されていたのかもしれない。
しかし、嫌われていようがいまいが、受けた施しのお礼はすべきである。買っておいたお礼の品は今も私のデスクの引き出しに眠っている。スマホをしまい、件のコーヒーとお菓子のセットが入った紙袋を取り出して彼に差し出す。
「お疲れ様です。あの、先日は本当にありがとうございました。これ、つまらないものですが良かったらどうぞ」
「え! あ、そんな…… 俺がしたくてやった事だから全然良いのに。けど折角なので頂きますね。わざわざありがとう」
訪れる沈黙…… 私から切り出す。
「タイムカード……」
「え?」
「あの日以来、ちゃんと付けてます。最初は慣れなかったけど、今はもう、大分生きるハードルが下がったというか……
ずっと下手な息継ぎをしながら、溺れるみたいに生きていました。でも今は、海の底につま先がついた気分です。きっと私、幸せなんだと思います」
再びの沈黙…… 2度目は耐えられなかった。
「……本当にありがとうございました。お先に失礼します。お疲れ様です」
足早にオフィスを去ろうとすると、宮野さんがガタッと音を立てて立ち上がる。
「痛っ!! あ、あの! 俺ももう帰るとこだから…… よかったら一緒に帰りませんか?」
どこまで貴方に甘えて良いのだろうか、引き返すなら今ではないのか。当初の意見交換という目的はきっともう果たせているし、感謝の意も伝えることができた。全部全部頭では分かったいた。だけれど私の頭と身体は仲が悪いみたいだった。
「……はい、喜んで」
自然と笑顔になっていた。平静を装うなんて選択肢はなかった。
ごめんね、今日は繋いであげられない。
心の中で袖を引っ張る彼女の手を振り解いた。
最初のコメントを投稿しよう!