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ホクロリグレット
(あ、しまった)
賢人は我に返り手を引っ込めた。
しかし、そのボタンは今まさに自分の指によって押されたところである。
もう、取り返しはつかない。
このまま走り去れば顔を合わせずに済むのではないか、ふと過ぎった思いつきを頭を振って打ち消した。そんなガキの悪戯みたいな真似をするのは大人としてどうなのか。しかも、こんな時間だ。伊予はああ見えて怖がりだし......。
酩酊し鈍くなった頭でウダウダと考える間にも時間は流れていく。
願わくば部屋の主が留守でありますように。そう思いつつも、一方では期待もしていた。
彼女がドアの向こうから現れるのを。
しかし、部屋の中からは一切の物音はせず、ドアも開かなかった。
賢人は溜息をつき扉に背中を凭れる。火照った身体が冷えた金属で冷やされて少し目が覚めた。
伊予は元カノだ。二ヶ月前に話し合って別れている。
いや、そもそも恋人とも言えない関係だった。
元々はただの同僚だったのだが、酔った勢いで一夜を共にしてしまい、それからなんとなくズルズルと一年。
「 恋人」という言葉に縛られない付き合いは楽だった。行動を制限されることなく、果たすべき義務もなく。そのうちお互いに好きな相手が見つかれば解消される、日常のちょっとした不足を補う為に利用しあう割り切った関係。賢人は充分に満足していた。
気力が充実しているせいか、仕事も順調だった。これでも若手では一番の営業成績を誇るホープである。特技である粘り強い交渉術は上からの評価も高く、来春には昇進間違いなしとのお墨付きも貰っている。
正に順風満帆。公私共に充実した毎日を送っていると思っていた。
しかし、伊予はそうではなかったのだ。
^._.^
「 私さあ、婚活する事にしたんだよね」
『婚活』の言葉に怯む賢人を見逃さず、伊予は賢人が言葉を発する前に、畳み掛けた。
「 だからさ、もうここへは来ないでくれない?二人っきりで会うこともないから」
「 え、」
「 そのスエットとかさ、コントローラーも冷蔵庫のビールも持って帰ってよ」
伊予は大きめの紙袋に賢人の持ち込んだ私物を詰めはじめた。
「 え、なに、いきなり」
「 いきなりでもないよ。私はずっと考えてた。いつ言おうかと思ってた」
背中を向けて冷蔵庫の扉を開ける伊予の声が少し滲んで聞こえ、賢人は息を呑む。
「 伊予......」
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