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あの土砂崩れのあと、勢いで二人旅に出てみたはいいものの、まず困ったのが意思疎通だった。
圭介は見えない。洸太は喋ることができない。
特に洸太が声を失ったのは大きかった。言葉による意思表示ができないのだ。旅先で利用する店やホテルでは、身振り手振りや筆談である程度の意思疎通はできた。だが、こと目の見えない圭介の相手となると、それすら全く歯が立たない。
試行錯誤の結果、ふたりは携帯の音声読み上げ機能と、何かを叩くことでのコミュニケーションに落ち着いた。
圭介は最初、常にイヤホンを付けることを嫌がったが、すぐに慣れた。今では就寝時以外はつけっぱなしだ。言語でなにかを伝えなければいけないときは、基本的に携帯で打ち込んで、それを圭介に聞かせてやっている。
簡単な意思の場合、つまり〈はい〉〈いいえ〉で済むような簡単な返事は、洸太が音を立てて伝えることで合意した。
〈はい〉の場合は二回。
〈いいえ〉の場合は三回。
その場にあるものを叩くなり、直接圭介を叩くなりして、意志を伝える。
もちろん、このやり方も万能ではなかった。
運転中は携帯など触れないので、運転手である洸太の意思は〈はい〉か〈いいえ〉しか表現できない。その間、圭介が一方的にしゃべり倒すか、諦めてふたりで黙るかの二択だった。
この二日間、車中でなされた会話は、圭介による独りごとか、トイレ休憩の要請か、行き当たりばったりの行き先指示ぐらいだ。
それ以外の時間は、ラジオで適当に誤魔化していた。
今も車内には関西のローカルラジオが流れている。聞いたことのない企業名のCMの音声が、さも当たり前のように二人の耳に飛び込む。ナレーションは意外と関西弁ではない。
やがて信号の案内に、海浜公園の名前が出始めた。
コンパクトカーを降りると、濃い磯の匂いがした。
圭介の手を引きながら、海沿いを歩く。
海を望む公園には、無数のヨットが繋がれていた。
白い船体に、少し傾いた太陽の黄をおびた光が反射する。海風はゆるやかで、梅雨時の空気のせいで随分と蒸し暑く感じられた。
ふたりは桟橋近くの階段に腰を下ろした。
「昨日の琵琶湖とは空気が全然違うなぁ」
サングラスを外し、焦点の合わない目を遠くに向けながら、圭介が気持ちよさそうな笑みを浮かべた。
早速洸太は携帯を取り出した。
『変なチョイス。』
「何がだよ、」
『行き先。全然メジャーな観光地じゃない。なんだ、鶴橋と海って。ふつうは道頓堀とかじゃないのか』
すぐ側には大きな遊園地もあった。
「なんだぁ洸太。俺と観光地デートしたいわけ?」
座っていた階段を三度叩いた。冗談じゃない。
「じゃあいいじゃねえか。俺が来てみたいっていうんだから、別に文句はねえだろ」
『文句はないけど。でもなんで、こんな所に来たかったんだ』
「話に聞いてたんだよ。昔、」
そう言うと、不意に圭介の言葉が途切れた。
洸太は圭介の横顔をちらりと見た。彼はうつろな目線を海のある方にじっと注いでいた。
「昔、世話になったやつがこの辺の生まれだったらしい。ふたりで海の話をしたことがある。」
『鶴橋の人だったのか?』
「知らねー。大阪としか聞いてない。鶴橋はただの俺の想像だ。韓国に縁があるならここだろうっていう、安直な。」
圭介は、深く息を吸った。
「あー臭っせぇ。あいつの言ってたとおりだな。ここの海は見える部分がキラキラしてるだけで、あとはぐちゃぐちゃだ。」
キラキラしているのが圭介に見えるはずもなかった。だが彼はまるでその光を目の当たりにしているかのように、目を細めて海の向こうを見つめている。その微笑みは、いつもと違ってどこか切なげだった。
暮れゆく日のせいかもしれない。
「話してやろうか、」
声が低く、小さくなる。潮風に溶けてしまいそうだったので、少しだけそばに寄った。圭介はいつも通り香水くさかった。
「話したい気分なんだよ。車ん中じゃまともに喋れねぇしな。お前、中学んときのこと覚えてるか?俺の親父が死んだときのこと」
おぼろげな記憶に、地面を二度叩く。たしか中二の梅雨明け前、彼の父は心臓かなにかの病で命を落としたはずだ。その前後、圭介はほとんど学校に来なかった。
「本当は殺されたんだぜ。高辻って男に。俺の知る中で、いちばん純粋で、いびつで、哀れな男だ。そいつの話をしてやるよ――なぁ、一度しか話さねぇからな。よく聞けよ、」
洸太は少し迷ったあと、腰掛けた階段の表面をコツコツと二度叩いた。
海風が、圭介の前髪の一筋を柔らかく揺らした。
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