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➖千登勢と小春➖
その日は穏やかな陽気で、鯉口を着た広い背中を向けて、作業する千登勢を縁側から眺めながら、小春も幸せを感じていた。
あの頃の2人に、心は戻されていく。
離れた所で高い木の作業をする職人に
指示する千登勢は、まだまだ現役で行けると思わせる声の張りだ。
「千登勢さんは、変わらないですね」
小春が声かけると
「小春さんこそ、笑う声はまだ娘さんみたいですよ」
千登勢が答える。
「まぁ、ふふふ」
手にしていたハサミを置いて
縁側に腰掛ける千登勢が言った。
「重機の下敷きになり、もしも体ごと下敷きになっていれば即死でしたが、足が挟まれたまま助けを呼べず意識が遠のく中
『ああ、俺は死んでいくんだな』と思いました。
それでも意識が戻ると、一命は取り留めたものの左足を無くしました。
梅干しのおかげで、足だけで済んだと思っています。その後も敗血症にもなり、生死を彷徨いましたが
それを乗り越えると、ふと気がついたんです。これで俺は生まれ変わったのだと」
「大変なお怪我でしたよね」
「小春さん、覚えていますか?
『生まれ変わっても、俺は小春さんを忘れません。その時は小春さんを嫁さんにする為、必ず迎えに参ります。約束させてください』
って言葉。
その約束、今果たしても良いですか?」
小春は千登勢の言葉に
震えていた。こんな歳になっても
あの時の同じ言葉で、心が揺さぶられている事にも驚いた。
「私と千登勢さんの糸は、まだ繋がっていたんですね。
生きていて良かった。
生きていてくれて良かった。
また、永遠の別れが来るのは
そんなに遠くない私達だけど
別れの悲しみに負けないくらい
素敵な思い出を今から作って行きたいと思います。私の方こそ、どうぞ、そばにいさせてください」
「ありがとう、小春さん。もちろん今更、結婚とか形式はどうでもいい。この施設が出来上がったら、僕がここで厄介になるから、いつでもそばにいられる様にさせて下さい」
「もちろんです。1日でも1秒でも長生きして思い出作りましょう」
そよそよと風が庭の樹々を撫でていく。池の鯉も緩やかに円を描き泳ぐ。2人の長い初恋の成就を祝っている様に。
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