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十六才で虎彦は 壱
シングルだった母とその婚約者とで会食の夜、東虎彦はしかし病院へ向かっていた。
タクシーの中、座った後部座席、膝の上でスマホを握りしめている。
かーちゃんがかーちゃんがかーちゃんが。
不安と焦りに首までひたり、季節など関係なしの極寒。
恐怖に全身塗ったくられたメンソールがひりつく。
震える。
大好きなはずのしっとり上等な秋の気候にすらばかやろうと叫びたかった。
新しい父をつれてレストランへ向かっていた母は、いきなり倒れた。
原因も意識も不明なことを、声と名前だけ知ってるおじさんがスマホごしに教えてくれた。
卯木獅子春とか云う派手な名前。
虎彦の母、東弓のスマホからの発信にて。
声は、おちついていながらも焦りをにじませていた。
いたずら?
こんなタチ悪い趣味悪いのがあろうか。
胸が痛い。
心臓すげェバクバク云ってる。
運ちゃんはそっとしておいてくれて、違反ギリギリのスマートな運転で虎彦を病院に無事届けてくれた。
釣りはいらない、と、震える手で料金支払って止まったタクシー飛び降りる。
救急搬送の窓口で秒でやりとりして病室に走った。
「かーちゃん!」
おちついて、と、看護師さんがそんなこと言ってくれた気がするがわからん。
白い部屋のなかには数人の大人や医療機器にベッドにカーテンがあって、なんらかの電子音がしていた。
「虎彦くん?」
名前を呼んでくれた声はあの、名前とそれだけ知ってるおじさん。
そこに弓のベッドがあると察した虎彦は飛びついた。
「え、ちょ、かーちゃん?」
今朝ぶりに見る母の顔は白すぎた。
せめて、と、にぎった手は冷たかった。
とじられた目。
すがるように見た医師はかぶりをふる。
「残念ですが」
こう云うことってのはわりとあっさり訪れるんだ。
体じゅうの緊張が一気に解け、膝から力が抜けた。
くずおれる体と心で最後に感じたのは、なじんだ香りだった。
幼少時から虎彦は、キィを打つのが好きだった。
母が持ち帰りの仕事のため使っていたノートPC。
カシャカシャタタタ、シャタタ。
母がたてる。
良い音。
ねだって時々、いくらか打たせてもらった。
何を打ち込もうかちょっと迷ってから、なんとなくうかんだ言葉を綴った。
人差し指二本で。
当然母みたいに良い音はだせなくて、不満をもらしたら言ってもらえた。
ブラインドタッチを覚えるとべんり。
便利? んー、そうだな、それより、必要かな。
十三才の誕生日プレゼントは、真っ赤なノートPCだった。
なんて麗しいのか、と、子供ながら見惚れた。
これが自分だけのモノ。
だいじにね。
うん。
抱きしめた相棒は、ベニヒコ、と云う名前を聴いて嬉しそうに輝いた。
光があった。
「ン」
知らない天井を、虎彦は見た。
とぎれていた意識がもどった。
あかるい。
朝?
ひらいた目に、ぼんやり白い部屋が見えている。
病室なのか。
ちいさなうめき声を聞いて、獅子春はパイプ椅子から立ちあがった。
「わかるかな?」
「あの‥‥獅子春さんてヒト」
「うん」
弓と同年代かちょっと若くに見えるヒト。
「そんで、かーちゃ‥‥ンの」
虎彦はそこまでで言葉につまった。
おじさんの目が言ってる。
横になっていた体まるめ、心の痛みに堪えた。
泣いた。
おじさんが、爪をたてられても血がにじんでもかまわず、虎彦の手を握りかえして説明してくれる。
心臓発作だったそうだ。
虎彦の母、弓の死因。
基礎疾患もなく、体の弱い母ではなかった。
が。
ストレスや過労、睡眠不足など複合的な原因があったらしい。
それで今は、その夜明けて翌日の午前九時をまわる。
「そっか」
虎彦の涙を、おじさんが綺麗なハンカチでふいてくれた。
弓は、母は。
思えば、そこそこの中小企業で部下も居て、バリバリ働きすぎたんだ。
給料も悪くなかった。
母ひとり子ひとりの母子家庭はぜいたくをしなければ衣食住にそれほど困らなかった。
それをあたりまえのように受け取っていたけれど、無理してたんだ。
かーちゃん、がんばりすぎて死ぬなんて、あんたらしすぎるよ。
もうもどらないお母さん。
「虎彦くん?」
しばし物思いに浸っていたら、おじさんの顔がすぐそこでびっくりした。
整った肌が見えた。
微笑みに品がある。
体ささえてもらって起きて、虎彦はそのヒトをまじまじと見た。
平凡よりちょっと良いくらいの顔立ちなんだけど、まなざしがとてもかしこく印象深い。
すらっとした体つきで、手足が標準よりきもち長いんだろう。
それでいて肩幅がほどよくありその身の細さでもたよりたくなる風貌だ。
「卯木獅子春さん。スよね」
「そう、卯木獅子春。きみの義父になるモノだよ。はじめまして、東虎彦くん」
「女みたいなにおいする」
「弓さんの香水だ。ま、その、そう云う仲なら香りも移る、てことでな」
「風呂入ってないんだ」
「そこまで能天気ならよかったな」
肩をすくめる仕草がにくめない。
悲しみの泥沼に咲いた綺麗な水蓮だ。
虎彦は裸でないことを確認してベッドから立つ。
よろける少年に獅子春は肩をかした。
この子はこの子で、この子も女のにおいがすると感じた。
もちろん、弓の香り。
自然、ふたりは並んで立った。
獅子春の肩らへんに虎彦の頭はある。
なんかくやしい。
「弓さんの所、と、朝ごはんと。行くかい?」
「うん」
すなおにうなずくでこっぱちの子供すごいかわいい。
獅子春は、夕べ勝手に脱がせたことをわびつつ、シワにならないようにだった、と、言い添えて制服のブレザーを着せた。
そう云えばこの混乱で、昨日おやつのカロリーメイト(バニラ味)食べて以降飲食していないことを、虎彦の体は腹を鳴らせて主張した。
こんなときでも腹はへる。
人間の自分。
十六才の誕生日に、母を亡くしたとしても。
エンバーミングを施された母は綺麗だった。
虎彦はそのかたわらに立ち、頬にふれる。
「つめたい」
「ああ」
虎彦のとなりで、獅子春。
「かーちゃん、最後どうだった?」
「少女みたいにはしゃいでしあわせそうだった。その直前まで」
「苦しくなかったかな」
「そうだな」
こみあげるモノをこらえて、おだやかな死に顔に、ふたり神妙に手をあわせた。
でも、やっぱ。
しゃくりあげる虎彦の肩を、獅子春はやさしく抱いてくれた。
その本人も静かに涙をながした。
で、メシ。
規模のデカい総合病院には立派なレストランがあった。
最上階、大きな窓から望む景色は豊か。
「おごるから、好きなモノを」
「いいの?」
「こう云うときこそうまいモノ喰わなきゃな」
病院名の付いたナントカ御前的な和食のサンプルが綺麗で、それを選びふたりして味わった。
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