色なき世界の底から

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1 目覚めよ、と。呼ぶ声がして。 彼女はゆっくり目をひらく。顔を上げると、そこに変化が訪れた。 光ゆらめく天井が。おりてきている。おちてくる。少しずつ、こちらへ。無限の高さに変わらずあったはずの液面は。いまはしかし、はっきり見える、光で満ちた平面となって。いっさいの音もなく。ただひたすらに、ゆっくりと。降りてくる。下降する。それはやがて彼女の髪の高さにまで低まって。そして頭が。液面の上に。 そこには大気が。無色の大気が充満し。 彼女の肺には、いま、未知なる気体が吹き込まれ。 激しく咳き込む。少し前まで、肺を満たしていた温かな溶液を、すべて、その場に吐き出して。 そして代わりに、満ちてくる大気。大気は未知なる冷たさで、彼女の肺を隅々まで満たした。震える肺の無数の表面細胞を介して、酸素が彼女に届けられる。それはこれまで長きにわたって、溶液に溶け込み肺を満たして彼女の肺を透過していた、水溶酸素のその量を、はるかに凌駕する量で。大気を介して直接的に血中に溶け込んでくる、熱を生み出す濃厚な酸素に。彼女の体は激しく痙攣。痙攣した。 やがてその痙攣が止んだとき。混乱と恐怖と激しい眩暈のおりなす混沌の中で。彼女はようやく目を開ける。そしてわずかな目の動きだけで。彼女の意識は、追う。追いかける。変わり果てた―― すっかり姿を変えてしまった―― 今ではもはや、まったく新たな、彼女を包む未知なる世界の、その先を。 光は変わらずここにある。上からここまで降ってくる。 しかし。あたたかな、ゆるやかな、包み込むような液はもうそこにない。 震える上がるほどに、冴えわたる冷気が、ただ単純にここにあるだけ。そして光は、何ひとつない大気の上から。きわめて強く鋭角に。光は降って。彼女の髪を。彼女の瞳を。まだ濡れたままの彼女の手脚を。感情のない、いっさいの色を持たない硬質な光で、彼女のすべてを照らし出す。 聴け。おまえはまずは、重力を知らねばならぬ、と。 耳奥に響き渡るその深い声には。否とは言わせぬ強い力が確かにあると。彼女は感じて。本能的に、彼女はその、ひどく深い場所から聞こえいずる声そのものに畏怖を抱いた。 この声が。声こそが。それこそがおまえの主だ、と。声が教えた。声が語った。おまえは声に、従う存在。それだけが公理。それだけが真理であると。 声は彼女に語りきかせる。おまえは「はい」と、言って従う以外のことを。その他の選択肢を。おまえはここで、持つことはない。おまえは自ら「選ぶ」「選べる」存在ではないのだと。 声が彼女に語って伝えた。彼女は声に従った。従う他に、何か自分にできるとは。そこでは彼女は、思いつくことすら無理だった。そこでは声は絶対の存在。絶対、至上の、きわめて崇高なる何かだと。彼女は恐れる心で、それを受け入れるほかに。何ひとつ、他には選ぶことはできないでいた。 その日から。声の教えに従って。彼女は目に見えぬ「重力」という力の底で。体を支えることを覚えた。ゆるくあたたかに長く彼女を包んで育てたあの液がすべて消え去ったその場には、「地面」と呼ばれる、体を支える空間の底ができている。地面は大気と同じく色をもたず、目で見ることはかなわない。しかし。感じることは確かにできる。世界にはひとつの底があり。その底の平面で。彼女は重力と戦いながら。姿勢を変えて。体を縮めて。体を伸ばして。やがて彼女は、「立つ」ことを覚えた。それは最初はきわめて不自然で。彼女にとっては、きわめて困難な姿勢に違いはなかったが。 慣れろ、と。声が告げた。おまえはそれに、慣れなければならない。 彼女は声に従って。やがて「立つ」ことが、彼女のふだんの営みの一部となった。 まもなく彼女は「歩行」を覚えた。「跳躍」を覚え、それから「走る」ことも。彼女はまもなく学習していく。彼女は駆けた。どこでもない、何ひとつない色のない空間の底を。どこまでいっても何も見えてくることはなかったが。彼女は足裏に確かな強い「地面」との接触を感じ。その大きな力を。体を前へと疾走させるその反動を。 好ましい、と感じた。肺が新たな酸素を求めて、あえぎ、あえぎ、心臓が新鮮なる血液の供給を求めて激しく脈打つ。苦しい。つらい。しかし。 その疾走感。 走ることの、その快感を。 彼女は初めて、そこに感じる。 楽しい。動く。体が進む。世界が。 世界がどんどん、移動していく。 いや。移動していくのは世界ではなく、自分。 自分という存在が。はじめて確かな意思を持ち、ひとつの明確な方向を定めて。 駆ける。跳ぶ。跳ぶように駆けてゆく。楽しい。楽しい。 自分はいま、ここにいる。自分はここに、生きている。 心臓が打つ。肺が吸う。肺が激しく空気を求めて。
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