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学校から帰宅してリビングのドアを開けると、陽一郎がソファに寝そべって漫画を読んでいた。
「あれ、よんよん来てたんだ。お母さんは?」
漫画から目を離し、陽一郎は寝転んだ姿勢のまま口を開く。
「おばさんなら庭に出てるよ。もう2時間くらい外にいる。ガーデニングよっぽどハマってんだね」
庭に通じる窓の薄いカーテン越しに、プランターの前にしゃがんで何やら作業する母、典子の丸い背中が見えた。数週間前、突如として家庭菜園に目覚めた母の手によって、日毎に庭が野菜畑と化していく。
「これからどんどん寒くなっていくのにちゃんと育つのかなぁ」
数日前に真由香が母にぶつけたばかりの疑問を、今度は陽一郎が口にする。
「玉ねぎとか今の時期らしいよ。あとなんかサラダの葉っぱ?みたいなの植えてる」
「葉っぱ〜」陽一郎は笑いながら適当な返事をして、また漫画に目を戻してしまった。
真由香は一旦、二階にある自室に行き、通学鞄を置いて、制服から部屋着に着替えてまたリビングへ戻った。キッチンからコーヒーの香りがしている。
「真由香も飲む?」
「うん、牛乳入れたい」
「オッケー」
陽一郎は手慣れた様子で冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、猫のイラストが描かれたマグカップに注いだ。
「ありがとー」
マグカップを両手で包み込み一口すする。冷たい牛乳をいれたせいで、ちょうど良く少しぬるめのミルクコーヒー。
白色の大きなマグカップを手に、陽一郎がリビングへ戻ってきた。そのマグカップは、二年前まで、兄の智也が好んで使っていたものだ。
まるで自分の家のようにくつろいでいるが、陽一郎は真由香の三つ年上の兄、智也の幼馴染みだ。
真由香がまだ赤ん坊の頃、陽一郎の両親が離婚したことをきっかけに、輸入雑貨店の経営で多忙な陽一郎の母、麻紀に代わって、典子が陽一郎の世話をすることになった。
少し内向的で穏やかな典子と、豪放磊落な麻紀は互いの欠けた部分を補うように、不思議ととても仲が良い。今でも時折、二人してランチや買い物に出掛けている。
普段はおとなしい母が麻紀のことを嬉しそうに話すのを、真由香はとても好ましく思っている。
そんな母親たちに似たのか、智也と陽一郎も幼い頃からいいコンビだった。
無口で感情に乏しく掴みどころのない智也と、屈託がなく誰とでも仲良くなれる陽一郎は、ちぐはぐに見えて意外にもうまが合った。同じ漫画にハマり、同じテレビゲームで競い合い、幼い頃から同じ時間を共有したせいかもしれなかった。
真由香にとっても、陽一郎はもう一人の兄のような存在だ。未だに真由香と典子は陽一郎を、昔ながらの呼び名である「よんよん」と呼ぶが、陽一郎もそれを恥ずかしがることなく受け容れている。
二年前、智也は県外の大学へ進学し、大学近くのアパートで一人暮らしを始めるため、家を出た。ちょうど真由香が高校へ入学した年だった。
智也が家にいなくなっても、市内の大学へ進学した陽一郎は変わらず、家を訪れた。麻紀は相変わらず忙しく、ほとんど自宅にいない。海外へ買付けに出ることも多く、あちこちを飛び回っていた。陽一郎は智也がいたころと同じように、真由香の家で過ごすことが多かった。
ここ二年、智也はお盆と正月くらいしか顔を見せない。
時々、典子が電話をかけて、短い通話の中で知った智也の近況を教えてくれる。といっても大した情報はなく、カラオケ店でバイトしていること、一応元気で暮らしていること。そのくらいだ。時に融通がきかないほど真面目すぎる智也のことだから、親元を離れたからといって遊びすぎて健康を害したりすることはまずないだろうという絶対的な信頼がある。
「よんよん、今日晩ご飯は?食べてく?」
「うん、俺作るから」
「え、やったー!正直お母さんのよりよんよんの料理のがおいしいんだよね。お店みたいな味で」
真由香の言葉の途中で典子が腰を押さえながらリビングに入ってきて、最後の方は小声になった。陽一郎も声を出さずに笑っている。
「真由香、おかえり。よんちゃん、私にもコーヒーお願いしていい?」
典子は腰をさすりながらダイニングの椅子にゆっくりと腰掛ける。陽一郎はすぐに立ち上がって、キッチンの戸棚からコーヒーカップを一客取り出した。
「楽しいのわかるけど休み休みやった方がいいよ。お母さんすぐ夢中になっちゃうんだから」
真由香はテーブルに肘を突きながら言う。
「植える時期が決まってるからね、気が急いちゃって」疲れた表情ながらも、典子は楽しそうだ。これまで趣味らしい趣味もなく過ごしてきた母がようやく楽しみを見つけられたと思い、真由香も微笑ましく見守りたいと思う。しかしつい先日、大きなプランターに土を入れようとしてギックリ腰になりかけるということがあったため、気が気でなかった。
陽一郎がコーヒーを注いだカップを母の前に置く。ソーサーに角砂糖が1つ添えられているのを見て、
「よんよんてホントできる息子よね」と母は嬉しそうだ。
「だってさ、やったね、お兄ちゃん」と真由香がからかい気味に言うと、「やめてよ」と苦笑いする。
「智也だってよくできた息子でしょ。真面目で思いやりがあって。しかも頭もいい」
「まぁ、そうなんだけどね、ちょっと真面目すぎて面白みがないというか」
典子は頬に手を当てて、少し首を傾げる。確かに智也は冗談ひとつ言わない堅物な面がある。でもその仏頂面が逆に面白いんだけど、と真由香は思い出して少し笑った。
「このまま夕飯作るね」キッチンに戻った陽一郎が手を洗いながら言う。
「あらー、ありがとう」
典子はコーヒーを飲みながら目を細める。真由香も母の隣で、料理を始める陽一郎をぼんやりと眺めた。冷蔵庫を開け閉めする音の後、手際良く包丁を使う音が聞こえてくる。居酒屋の厨房でアルバイトを始め、また腕が上がったようだ。陽一郎の少し長めの前髪が目にかかっていて、払ってあげたいな、と真由香はふと思った。
「あのさ、そんなに見られてるとやりずらいんだけど」
「そう?上手だなーと思って見てただけだよ」
真由香はテーブルに頬杖をついて、悪びれることなく陽一郎を眺める。
「宿題とかしなくていいの?高校生」
「残念でした。今日は部活が休みだったから放課後に友達と図書室行って宿題終わらせてきちゃいました」
真由香が得意げに言う。
「それに、さっきまで寝転がって漫画読んでた人に言われたくないなー、大学生様」
「俺はいいの。先週やっと受験勉強から解放されたばかりなんだから。ちょっと頭休ませたいの。まぁ、また来週から課題三昧だけどね」
「受験勉強?」
陽一郎は今、大学二年生だ。
「なんの?」
「三年次編入って言って、別の大学に来年度から入り直すんだ。その受験がこないだ終わった」
「受かったの?」
真由香が陽一郎を見つめると、陽一郎も改まったように包丁を持つ手を止めて真由香を見た。
「うん」
その真っ直ぐな瞳に、真由香はなんとなく嫌な予感を覚えて黙った。隣で典子が驚いた様子で声を上げ、お祝いを言っている。
「次の大学はどこなの?」
真由香が訊きたくて訊けなかったことを典子がさらりと言う。
「東京」
典子に訊かれたのに、陽一郎は真由香に向かってそう答えた。
「じゃあよんちゃんもとうとう一人暮らしだ」
典子の声が少し遠く聞こえた気がした。
それから父も帰って来て、四人で食卓を囲んだ。
陽一郎が作った生姜焼きは、美味しかった。それなのに、真由香はほとんど箸が進めることができなかった。箸で白米を小さく摘んで口に入れる。飲み込むことすら億劫に感じた。
父は食事の間中、陽一郎に大学での勉強について語っていた。陽一郎も時折笑いながら、興味深げに相槌を打っている。父と陽一郎が盛り上がっているのを横目に、真由香はもそもそと咀嚼し、お茶で流し込んだ。どんどん、気持ちが落ち込んでいく。その原因が、陽一郎の東京行きにあることは間違いない。
食事が終わって、母が片付けをするのを陽一郎と真由香が手伝った。
「じゃそろそろ帰るね」
その声に、真由香は慌ててストールを羽織る。
「ちょっとよんよん送ってくる」
「え、いいよ。もう夜だよ。逆に俺がもっかい真由香を家に送んなきゃじゃんか」
「じゃそれお願い」
「おいっ」
軽くツッコミながらも、陽一郎がそれ以上引き止めてこなかったので、真由香は一緒に外へ出た。秋の深まりを感じさせる、ひやりとした空気が頬を撫でる。
すっかり落ちてしまった金木犀の小さな花が、地面の色を明るく変化させ、落ちてなお、甘ったるい香りを放っていた。
あと数日で満月になりそうな月が夜空の低いところに顔を覗かせている。陽一郎が黙っているので、真由香も何も言わず隣を歩いた。
陽一郎の家は、真由香の家からすぐ脇の路地を入って数分歩いたところにある。お互い黙ったまま歩いていると、もう陽一郎の家が見えてきた。
陽一郎は自宅の手前で立ち止まる。真由香も足を止めた。
「真由香、怒ってる?」
「怒ってない」
即座にそう答えたが、そっか、私怒ってるんだ、と真由香は気付いて、「やっぱ怒ってるかも」と言い直した。
「智也が一人暮らしするって決まった時はそんな怒んなかっただろ」
陽一郎は困った様子ながら、なぜだか少しだけ嬉しさをにじませた表情を見せている。そのことに真由香はいよいよ腹を立てた。
「だって智ちゃんとよんよんは違うじゃん」
言いながら、何が違う?そう考えていた。智也は家族で、よんよんは赤の他人。近くにいなくなれば、もう会えない。会えなくなるのは、嫌だ。なぜ?ぐるぐると自問自答する。
「東京までは電車で2時間半くらいだよ。オレもたまには帰るし、真由香も遊びにくればいい」
「やだ」
「えー、淋しいこと言うなよー」
陽一郎は笑っている。真由香は、なぜこの状況で笑えるのか腹が立って仕方がなかった。それと同時に、なぜ自分がこんなにも苛立っているのか、その理由がいまいち分からずにいた。
「だってよんよんとはこの先もずっと一緒にいられると思ってた」
「うん」
「家に帰ったらよんよんがリビングで昼寝してたり、ご飯作ってくれたり、一緒にテレビ観て笑ったり、そういうのがなくなっちゃうのはやだよ」
「うん」
「ずっと一緒にいたいよ」そう言いながら、行かないでとは言えない自分がいた。そこまでして引き止めることはできない。赤の、他人だから。
少しの沈黙ののち、
「それはどういう意味?」
真由香から目を逸らせながら、陽一郎が小さな声で呟いた。
「え?」
真由香が聞き返す。陽一郎は顔を俯けたまま、もごもごと呟く。
「そういうこと言われると勘違いするかも」
「え?何?」
よく聞き取れなくて、真由香は陽一郎に顔を寄せた。顔を覗き込もうとすると、陽一郎は慌てて顔をあげ真由香を見るとまた目を逸らせた。
「いや、だから、俺もさ」
夜風に震えるような小さな声。
「俺もずっと一緒にいたいなって」
その時、真由香の背後からヘッドライトを照らした車が近づいてきて、アスファルトを擦る乾いた音を立てながらすぐ脇を通り過ぎた。陽一郎は真由香の肩をそっと押して、歩道側に移動させ、すぐに手を離した。
「よく聞こえなかったからもう一回言って」
「だから…」
陽一郎は下を向いて何かを考えている。
「智也、元気にしてるかなって」
「え?絶対そんな話じゃなかった」
「聞こえてんじゃん」
「ホントに聞こえなかったの!」
「なんて言ったの?」真由香は陽一郎の顔を見上げる。相変わらず陽一郎は真由香から目を逸らせている。逡巡したあと、決意したようにようやく口を開いた。
「俺、真由香のことずっと大切だなって思っていて、その」
陽一郎の後ろから来た自転車が走り抜けていき、陽一郎は言葉をつぐんだ。どこかの路地で猫が鳴いている。
真由香が思わず猫の鳴き声に気を取られると、陽一郎が緊張を吐き出すように息をついて、それから笑った。
「ちょ、真由香」
「あ、ごめ」
「はは、もう、何回告らせんだよ!」
真由香ももう、苛立つ気持ちは溶けてなくなって、しんと静まりかえる歩道の暗がりに、街灯と月が仄かに照らす陽一郎の顔を見上げていた。大きな掌が近づいてきて、頭にそっと置かれた。そこから温もりが伝わってくる。
陽一郎は身体をかがめ、正面から真由香の瞳を覗き込む。
「真由香、好き。ずっと好きだったよ」
優しく、穏やかな声が、真由香の耳に届く。鼓動が一つ大きく高鳴って、その衝撃に思わず呼吸を止める。
「聞こえた?」
陽一郎の手がするっと降りて耳の辺りを撫でる。急に気恥ずかしくなって、真由香は黙ったままこくりと頷いた。頬が熱くなっている。
「真由香は?」
うまく呼吸ができないまま、真由香は俯く。胸の奥の方から、大きな波が押し寄せて、口を開けば、全て溢れ出してしまいそうだった。「好き」。そう言った陽一郎の声が、ずっと耳の中に響いている。
「わ、私は、わかんない」
ようやく絞り出した言葉がそれだった。
「そうくるか」それでも陽一郎は微笑んでいる。愛しいものを見る、そんな瞳で。
「いいよ、ゆっくりで」髪に触れる手が離れ、そのまま真由香の手を握る。
「送る。帰ろ」
手を引かれるまま、真由香は来た道を戻った。月が白く大きく、二人の帰る道を照らしている。星の瞬きがこそばゆい。半歩前を歩く陽一郎の髪、肩、繋いだ手、目の前にあるもの全てに、細かな光が降り注いで煌めいている、そんな気がした。
「クリスマス、どこか出掛けよっか」
陽一郎からお誘いがあったのは、冬休みの最初の日のことだった。
告白の日から数日はなんとなく気恥ずかしくて、真由香はぎこちなく過ごした。勉強にも手がつかずふわふわとした心地のままいたが、期末テストが始まると否応なく時間に追われる日々を送らなければならなかった。
陽一郎も同じように課題に追われ、一人暮らしの資金を貯めるためにアルバイトも増やし、以前のように真由香の家で漫画を読みながらゴロゴロするなどという余裕もなくなっていた。
真由香は陽一郎に会わない時期をなんとなくホッとするような、寂しいような気持ちで過ごした。それでも、「好き」という言葉の温かさが心の奥に常にあって、忘れられなかった。
「どこか行ってみたいとこ、ある?」
リビングで二人きりになった隙に、陽一郎が尋ねる。母は相変わらず庭いじりをしている。軽量ダウンを着込み、ホッカイロをいっぱい貼っているとはいえ風邪を引かないか少し心配だ。
「買い物行きたいかも。服とか」
それがクリスマスデートに相応しいかどうかわからなかったが、真由香は急いで答えた。少し考えて、遊園地とか行きたかったなと思ったが、あまりにもデートらしくなりすぎるようで恥ずかしくて言えなかった。
陽一郎と二人になるとなぜか気持ちが焦ってしまう。鼓動が速まる。
「わかった。場所とかまた決めよう」
陽一郎は優しい。小さい頃から。それこそ、ランドセルを背負ってるような頃から。ずっと変わらず、真由香の気持ちを思い遣ってくれる。その優しさにずっと甘えてきた。当たり前だと思っていた。でもあの夜から、それでいいのか、わからなくなってしまった。
あの夜、確かに何かが変わったはずなのに、いつも通りの陽一郎にもどかしい気持ちがした。それと同時に、変わってしまうことが恐ろしくもあった。家族、なら変わらない。でも、好き、は嫌い、にも変わる。根拠なく、それが怖かった。
次の日、兄が唐突に帰ってきた。
驚く真由香と典子に、智也はなんでもないことのように右手を顔の近くに掲げてみせる。右手の小指と薬指が包帯に覆われ、手首で固定されている。
「え、何、どうしたのそれ」
「雨の日にチャリ乗っててコケた」
「何してんの智ちゃん」
「マンホールって滑るから真由香も気を付けて」
「いやそもそも雨の日に乗らないし」
「大丈夫なの?」
典子が心配そうに言う。
「泣くほど痛かった」
淡々と、たいして痛くなさそうに智也は言う。典子は転んだところを想像したのか顔を歪めた。
「とにかく、ゆっくりしていきなさいね。年始までいられるんでしょ」
典子が忙しくキッチンに向かう。
「うん」
「バイトは?」真由香もキッチンに立ち、智也のためにコーヒーを淹れた。
「店長が休めって」
「カラオケ店でしょ。なんか智ちゃんがカラオケで働いてるの変な感じ。音楽とか全然聴かないのに」
その時、テーブルに置いた智也のスマホが音を立てて短く震えた。智也は左手でスマホを操作する。
「陽一郎だ。ちょっと行ってくる」
智也の口から陽一郎の名前が出て、真由香の心臓が小さく跳ねた。
「え、どこに?」
真由香が聞くと、智也は少し不思議そうな顔をしてから、
「陽一郎んち」と答え、出掛けていった。
暗くなって、智也は陽一郎を連れて帰ってきた。
陽一郎はリビングに真由香を見つけると、
「真由香」と小さく手を挙げて、そのまま智也と共に二階の部屋に行ってしまった。真由香の部屋は智也の部屋のすぐ隣で、なんとなく自室に行きずらくなった真由香はリビングで観たくもないバラエティ番組を流しながら夕飯まで時間をつぶした。
智也がいると、陽一郎は男友達の顔をする。男同士の気楽さ、気の置けなさ。真由香に見せる顔とは少し違う。今、この家で真由香は陽一郎にとって男友達の妹なのだ。ずっとそうだった。陽一郎は兄の友達。懐かしくて、少しだけ悲しい。変わることを恐れながら、変わらないことを悲しむ真由香はきっと滑稽だろう。
母の作ったカレーを食べ、陽一郎は帰っていった。智也が玄関先まで見送り、真由香も智也の後ろから顔を覗かせる。陽一郎は智也にも真由香にも同じようににこやかな笑顔を向けて手を振った。
やっと自分の部屋に戻り、ベッドに寝転がると真由香は大きく息をついた。目を閉じる。そのまま眠りに落ちてしまいそうになり、真由香は慌てて起き上がった。陽一郎にメールを送る。
『クリスマス、智ちゃんも帰ってきたし、やっぱりうちでクリパしよ』
すぐにスマホが震える。
『いいよ!俺、料理担当するから真由香も手伝って』
『うん、わかった!楽しみ』
スマホを充電機に繋ぐ。机に顔を伏せて目を閉じると、また眠気が襲ってきた。お風呂入らなきゃなぁと考えながら、真由香はまどろみに身を委ねた。
クリスマスも、年末年始も、引きこもるように家で過ごした。友達からの誘いも断って、部屋で本を読んだり、テレビを観て過ごした。母に「絵に描いたような寝正月」と笑われた。
元旦に一度だけ、智也と陽一郎と三人で近所にある小さな神社に初詣に出掛けた。帰ってからはまたリビングや自室でダラダラと過ごした。
陽一郎は居酒屋のアルバイトが忙しく、なかなか顔を見せなくなった。智也も自室にこもって何やら勉強をしている。左手と、右手の三本の指だけで不自由そうにキーボードに向かって何かを打ち込む背中が、以前より丸まっている。大学受験が終わったら思いっきり遊べるなんて言ってたけど、嘘だ。智也も陽一郎も、大学に入学してからの方が忙しそうだ。そして、楽しそう。智也は以前から興味を持つと熱中しやすく、好きなことに没頭できる今の環境は、智也にとって最適なんだろう。陽一郎もきっと、見つけたんだ、真由香は思う。東京に、陽一郎のやりたいこと、熱中することがある。胸がチクリと痛んだ。
二月の重たい空に、今にも雪がちらつきそうだ。
教室の窓際の席でノートを鞄にしまいながら、真由香は空を見上げた。一月の終わりに大雪が降ってからしばらく晴れ間が続いていたのに、また天気が崩れそうだ。寒さは苦手ではない。むしろ、パキッと潔いこの街の冬が好きだ。
「まゆかぁ、帰ろ」
ホームルームが終わって半分ほど生徒が帰った教室に、隣のクラスの和紗が入ってきて真由香に声を掛ける。和紗は入学してすぐ仲良くなった友達で、クラスが替わった今も、部活がない日はこうして真由香の教室に迎えに来る。ショート丈のダッフルコートから伸びた足がすらりと長い。
「今日陸部ないの?」
「雪降りそうだから中止になった」
和紗の言葉に窓を見遣ると、いつの間にか大粒の雪が降り出していた。
「傘、ある?」
「うん、折り畳み持ってる」
真由香は鞄の底から折り畳み傘を取り出す。
「そっか、行こ」
通用口で傘を開き、並んで歩き出す。傘を持つ手に、少しずつ積もる雪の重みが感じられた。
「まゆかさぁ、こないだ言ってた彼とはどうなったの?」
「よんよん?」
「パンダのヨンヨン」
和紗がからかってくる。
「ちゃんと返事したぁ?」
真由香が何と返したらいいか迷っていると、
「その様子だとなんも進展してないわけだ」
「なんか、わからなくなっちゃって」
うっすらと積もり始めた雪を踏みながら歩く。
「遠恋がそんなにやなの?」
真由香は少し考えて、首を横に振った。
「変わるのが、怖いんだ。今までよんよんとは家族も同然で。それが心地よかったし、当たり前だったから」
「ふぅん」
ぼた雪が次から次に落ちてきて、次第に景色を白く染めていく。駅舎が見えてきた。
「付き合うつもりないんだったらさ、彼が東京に行く前に解放してあげなよ」
「解放?」
「そ。だってほっといたらいつまでも真由香のこと待ってそうじゃん、何年も」
「そんなことないよ。だって、東京だよ?楽しいこととかいっぱいあるし、出会いだって」
「真由香のことすぐ忘れるって?」
「う…」涙が滲む。
「ごめんごめん、いじわる言った」
和紗が手を伸ばして、真由香の頭を撫でる。
「真由香のさ、素直な気持ち伝えてみたら?それがわがままだったり、独りよがりだったりするかもだけど、いいじゃん。このままでいるよりずっと」
「…うん」
ふと、陽一郎の笑った顔が思い浮かんで、真由香の瞳にまた涙が滲んだ。きっと、どんな答えだって、陽一郎は優しく微笑んで受け容れるのだろう。
玄関ドアに手を伸ばしたところで、中から陽一郎の話し声が聞こえることに気付いた。真由香は急いでドアを開ける。
玄関先で靴を履いたまま、典子と陽一郎が立ち話をしていた。
「真由香おかえり」典子は履いていた長靴を脱いで、脇に揃えて置いた。長靴にはうっすらと雪がついている。
「おかえり〜」
陽一郎は立ったまま、真由香を優しく見つめた。
「そうそう真由香、よんちゃんね、明後日もう東京に行くんだって」
「え!」
真由香は驚いて陽一郎を見上げる。
「そんな、急だよ」
「ごめん、こっちの講義も終わったし、東京で生活する準備もあるから予定を早めたんだ」
何も言えず、真由香は俯いた。雪に濡れた体がしんと冷えていく。
「寂しくなるわ〜、よんちゃんはちゃんと帰ってきてね。お盆とお正月だけじゃなくて、麻紀ちゃんに顔見せてあげてね」
陽一郎は笑って頷いている。そして真由香を見て、なだめるように顔を近づける。
「真由香、そんな顔しないで。俺、多分ちょこちょこ帰ってくると思うし、地球の裏側へ行くってわけじゃないんだからさ」
言葉が喉の奥でカチカチに凍ってしまったみたいだ。真由香は唇を噛んだ。
「よんちゃん、上がってお茶でも飲んでいったら?」
典子がリビングに向かいながら声を掛けたが、陽一郎は首を振った。
「今日は色々準備があるから帰る。挨拶に来ただけだから」
陽一郎はもう一度真由香を見て、
「じゃ」と言った。
真由香はようやく、「送る」と声を振り絞ったが、陽一郎は真由香の濡れた肩に触れ、
「外寒かったでしょ。早く部屋であったまりな」
そう言ってドアに手を掛けた。そして振り返り、真由香の瞳を覗き込む。
「明後日、正午の新幹線で東京に行く」
最後にまた優しく笑って、陽一郎は帰っていった。
その日は快晴で、薄水色の空が低く、どこまでも遠く広がっていた。溶け残った雪が道路の端に寄せられ、陽射しの温もりを待っている。
真由香は新幹線の停まる、地元で一番大きな駅へ向かっていた。自宅の最寄駅から数駅乗り、そこからバスに乗り換えてターミナル駅を目指す。正午まであと三十分という頃、ようやく駅に着いた。
券売機で入場券を買って、早足で改札を通る。平日だが、キャリーケースを牽いた人々が忙しなく行き来している。ビジネスマンらしきスーツを着た男性が多かった。
長いエスカレーターに乗って、真由香は乗車ホームへ出た。新幹線が静かに滑り込んできたところだった。
ホームを見渡す。
「真由香!」
その声に真由香は振り向く。急いで歩いたのか、少し息を切らせた陽一郎がキャリーバックを手に立っていた。
「来て、くれた」
陽一郎がくしゃっとした笑顔を見せる。
「よんよん、一人?見送りの友達とか」
「いないよ。昨日こっちの友達にはみんな挨拶したから」
陽一郎は眩しそうに目を細めて言った。
「真由香が来てくれる方に賭けた。今日は真由香だけ」
どうして、こんなに泣きそうな気持ちなんだろう。喉の奥から、何かわからない温かいものが溢れてくる。
「よんよん」
「うん」
「ずっと、ちゃんと返事できなくて、ごめん」
「いいよ、ゆっくりでいいって言ったじゃん」
「私、よんよんのことは家族と同じだと思ってた。ずっと変わらない、いつでもそばにある、私の帰る場所。そこによんよんがいるのが当たり前だと思ってた」
「うん」
「だから、それが壊れてしまうのが怖かった。よんよんへの気持ちが、だんだん家族と同じものではなくなって」
息が苦しくなり、真由香は声を詰まらせた。
「失くしたくない。忘れてほしくない。独り占めしたい。そばにいたい。私だけ、好きでいて」
「よんよん、好き」
真由香は陽一郎の顔を見られないまま、一気に言葉を吐き出す。陽一郎のコートの袖口をぎゅっと掴み、繰り返す。
「好き、好き」
「変わらないよ」
陽一郎の声は少し掠れていて、でもはっきりと言葉を紡いだ。
「真由香がさっき言ってくれたこと、俺が全部叶える。叶えさせて」
真由香がようやく顔を上げると、陽一郎は安心したように真由香の頭をそっと撫でた。それから少し辺りを見回し、
「こっち」
そう言って真由香の手を優しく引き、自動販売機の陰に隠れてキスをした。花びらにそっと触れるような、優しいキスだった。
唇が離れ、息がかかるほど近くで見つめ合う。
「ちょっと恥ずかしい」
「俺も」
二人同時に吹き出して、見つめ合ったまま笑った。
真新しい新幹線に乗って、陽一郎は東京へ行ってしまった。車両がカーブを曲がって見えなくなるまで、真由香はホームに立って見送った。小さくなって消えていく新幹線を眺めながら、ゆっくりと、ゆっくりと、心が温かく満たされていった。変わらないもの、離れても、ずっと、すぐ、そばにあるもの。
(了)
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