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六月、私の学校に男の教育実習生がやってきた。三村海という名前の大学生だった。実習するなら母校がいいなと決めていたんです、と職員室で他の先生に話す海先生は、この校舎から海岸線まで四時間以上かかるのに、どうしてご両親は海と名付けたのだろうか、と訊かれて苦笑いをしていた。苦笑いは彼の特技だ。
私は大学生になる以前から彼を知っていた。
一か月前、実習の打ち合わせに海先生が来た時、私は知っている人の初めて目にする背広姿に気が付いて、飛び跳ねるほど喜んだ。学校の先生を目指していることも、この寂れていくだけの山に囲まれた市内に戻ってくることも、知らなかったからだ。
「まあ、気軽に頑張ってくれよ。ここは生徒数も少ないから」
初老の宮田先生は柔らかな口調でそう言った。少ない白髪を横に流している男性教員だ。長年勤めて、もうすぐ定年なので、声の印象とは違い、若手の扱いは他人事だ。しかし、海先生は必要以上に臆することもなく、やはり苦笑いだった。
「や、やれるだけ頑張ります。指導要領は用意してきましたので」
そこへ宮田先生の向かい席から、指導要領なんて懐かしいわ、と声が飛んできた。
宮田先生ほどしゃがれ声ではなく、ハキハキと喋る女性教員の羽田先生だ。赤黒い紅が特徴で、海先生を眩しそうに見ながら、今幾つ? と訊いた。
羽田先生は四十代後半だった。
「今年で二十二です」
彼はさらりと答えた。
「若い!」
羽田先生は喜々として声を上げ、まるでそうすることが決まっていたみたいに舌を回して、離れた席で身体を丸くして、PCをタイピングしている女性に声をかけた。
「鈴本さん? 海先生と歳近いわね?」
鈴本先生はタイピングの手をとめた。キャスター付きの椅子をクルッと回して、教育実習生には目もくれず、レンズの大きな眼鏡越しに羽田先生を見た。
「何か呼びましたか?」
「鈴本さんは海先生と歳近いわねって?」
「羽田先生。私、もう若くないですよ」
鈴本先生は目つきも口調もきつかった。
しかし、慣れているのか、羽田先生も相手にしない。
「あら、ほんと? 幾つ?」
「に、二十九ですけど」
「まだまだ若いわよ! ねえ、宮田先生?」
宮田先生は頷くだけだった。調子を崩した羽田先生はムスッとした表情をしている。その間に鈴本先生はまたクルッと椅子を回して、パソコンに向き直った。
羽田先生は気を取り直して、海先生に明るい声で話しかける。
「海先生も何もこんな暑い時期じゃなくてもよかったのに。ねえ?」
六月初旬だった。夏休み前の職員室はすでに冷房なくしては過ごせない。
教室にエアコンが設置されたのは今年のことだ。許可されるのは授業中のみだが、室内に冷気は残るので、休み時間にグラウンドで駆け回る生徒は少なくなった。
「そうですよね。でも、僕が生徒だった時はクーラーなんてありませんでしたから。涼しい中で授業ができるのはちょっと新鮮なんです」
「もう、若いからそう言えるのよ? 私なんてもう夏ってだけで授業したくないもの」
羽田先生はポロッと不満を零して、口元を指の腹で覆った。
すでに手遅れで他の先生の耳には入っていたが、暑い日は誰もがやる気を削がれるので咎める人は流石にいない。羽田先生は他の先生の表情を窺った後、また話題を変えて、話し出した。
「そうだ! もし来年、海先生がうちに赴任してきたら、鈴本さんと桜でも観に行ってらっしゃいよ? 駅の裏に桜通りもあるし。お似合いじゃない?」
宮田先生はもう話に入ってこない。
羽田先生が話好きなのは知れ渡っているので、他の先生も何も言わない。鈴本先生は自分の名前が上がったことを気にしていたが、振り向いて、とやかく言うことはなかった。
相手をするのは海先生だけだった。けれど、彼はこの会話を義務に思っているとも感じさせず、この質問にもさらりと答えた。
「楽しそうですけど。僕、桜がダメなんです。鈴本先生が、というわけではなくて」
「桜がダメ? 珍しいわね」
羽田先生は理由を訊かなかった。海先生は苦笑をしている。
次に口を開けたのは意外にも宮田先生だった。
「君。国語を専攻して、桜が嫌いはいかんよ?」
宮田先生の担当は国語で、嫌味を感じさせず、顔は笑っている。
「や、やっぱ、ダメですかね? はは」
海先生もつられて笑った。私はそれを見て、ホッとした。
その笑いが先ほどまでと違って、少し楽しんでいるように見えたからだ。彼は相変わらず人当りがよく、嫌われない性格をしている。しかし、それよりも私の知る彼は桜が好きでも嫌いでもなかったので、ぜひ理由が知りたかったのだが、その機会は失われてしまった。どうして誰も気にならないのだろうか。桜が嫌いな人など中々いない。
もやもやする。私がこんな気持ちになるのは、全部、理由を訊かなかった羽田先生の所為だ。
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