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海先生の教育実習の終わりが近づき、教室内では寄せ書きを用意する話になった。
慕われている先生は誰もがもらうあれだ。知り合いの私もそれは誇らしかった。
学級委員の発案で始まったこの企画を私は何も言わずに見ていた。放課後に少しだけ残って、色紙に一人一人がカラーマーカーでメッセージを書いていく。綺麗な色。ちょっと歪な文字だったり、可愛い丸文字だったり。どれも個性的だが、それがむしろいい。自分がもらう訳でもないのにわくわくした。
しかし、実習があと二日になった放課後、いつものように寄せ書きを書いていると、大きな排気音を立てて、見慣れない乗用車が校門を通って入ってきた。赤い乗用車だった。それを窓から見ていた私は何事かと教室を出て、敷地の駐車場へ向かった。教室の生徒も気にはしていたが、寄せ書きを書いていたため、誰もついてこなかった。
乗っていたのは運転席に一人だけで、その人の顔を見て、私はハッとした。宮地好美。海先生の同級生にあたる女性で、私の知っている人だったからだ。
好美はカラーシャツにデニムという動きやすい服装だった。彼女は乗用車に鍵をかけると、真っ直ぐ職員室へ歩き出した。私は海先生の時と同様に、忘れられているのが怖くて、話しかけられず、駐車場にあった別の自動車に隠れて、様子を窺うしかなかった。
「お久しぶりです!」
好美は職員室にサッパリした挨拶で入った。
「あら、宮地さんじゃない!」
すぐに彼女を思い出したのは羽田先生だ。
「羽田先生、お久しぶりです」
好美は挨拶をしながら、羽田先生に勧められた椅子に腰を下ろし、職員室内を見渡した。今日はどうしたの? と羽田先生に訊かれても、反応が悪く、辺りを気にする様子だった。
「今日はあの三村と約束がありまして。あ、言っときますけど、違いますよ。あいつは友達で、私はもう婚約者いますからね?」
「そうなの? 残念。楽しそうな話かと思ったのに」
口から出た言葉とは違い、羽田先生は楽しそうだった。
そこへ海先生が職員室に入ってくる。
「あ、三村! さっさと行くよ!」
海先生を見つけるなり、好美は声を出した。海先生は慌てて帰り支度を始める。これからどこへ行くの? と羽田先生が二人のどちらとも決めず、質問をした。
駅裏です、と好美が答える。海先生は気まずそうに苦笑いをしていた。
私は急いで、駐車場に戻って、赤い乗用車のトランクに入った。二人の関係を怪しんだ訳でも、行き先が気になった訳でもなかった。ただ、海先生と好美が会う約束をしていたということが気になり、その様子をどうしても見たかったからだ。
トランクにはすでにレジャー用品やら小物が積んであり、狭くて苦しかったが、我慢をした。しばらくして職員室の挨拶を済ませた二人が駐車場に歩いてきて、乗用車に乗り込み、エンジンをかける。
「じゃあ、行くよ。あんたと会うのも久しぶりだけど。あっちも久しぶりね」
そう好美が言うのが聞こえ、もう八年経つからな、と教育実習生としての顔をはぎ取った低い声で、海先生が答えるのが聞こえた。乗用車はすぐに発進した。
けれど、車内の会話は残念ながら走行音で聞こえなかった。駅の裏には校舎から自動車で約十分かかる。トランクの中でたまに信号で停車するのを感じながら、寄り道もなく、赤い乗用車は相当の時間を走行し、どこかで停車して、二人は乗用車を降りた。二人が離れるのを待って、私もトランクをこそっと抜け出すと、そこは駅の裏にあるコンビニの駐車場だった。二人の背中はそこから近場の通りに向かっている。私は後を追った。
「ここね」
好美の一言に、海先生は何も言わなかった。
辿り着いたのは桜通りだった。
「もう八年かあ」
好美がまた言葉を漏らした。
しかし、海先生はやはり黙ったままだ。
二人が立っているのは桜通りの入り口だった。ちょうど車道と交わるところで、びゅんびゅんと今も自動車が何台も通り過ぎている。私は海先生と好美が何故会う約束をして、この場所へ来たのかを確認した。察した通りだった。
この桜通りの入り口は八年前、私が交通事故で死んだ場所だ。
享年十四歳。中学二年生の私は同級生の三村海と一緒に桜を見るため、この通りにやってきた。前日、親友の宮地好美にからかわれ、私が三村海を異性として意識していたこともよく覚えている。当時から私は彼が好きだった。
しかし、楽しい時間を過ごすはずが、いざ通りを歩こうとしたところで、居眠り運転のトラックが車道を外れて、私に突っ込んできた。木之下建設。木之下峻の父親だ。私は即死だった。以来、私は思い出深かった中学校に住み着いている。今ではよほどのことがなければ、起こせないが、死んだすぐはあまりの後悔に校舎内の物を動かしたり、悲鳴を上げてしまったりと、よくポルターガイスト現象を起こしてしまい、教員や生徒に怖がられた。だから、少しでもおかしな現象があると私の所為にされ、今なおいじめられる。
校舎内にはめったに使用されない準備室があり、人に迷惑をかけないよう、私は放課後、そこを自宅にしているのだが、毎年、心霊体験を面白がる生徒は必ずいて、度胸試しにされ、暴言を吐かれたり、ゴミを投げられたりする。やり返しても、面白がられるだけだ。
「偶然なんだけど、教育実習で担当しているクラスに木之下って生徒がいるよ。あのトラックのとこの息子さ」
そう海先生が重たい口を開けた。
「それは何とも言えないな」
好美が感情のない声で答える。
「しかも、その木之下は松里の霊を知っていて、馬鹿にしているらしい。やめるように言ってるんだけど、毎年、誰かが松里のことで肝試しをするらしいんだ。だから、中々歯止めが利かない」
「つるし上げるのも難しいな」
「そうなんだ。立証できないから」
私はその会話を後ろで聞いていた。本当は一言伝えたかったし、悲しんで欲しくなかった。確かに死んだ直後は気持ちがどうにも整理できなかった。けれど、あれからもう八年が経ったのだ。流石に慣れたことも多い。
私は三村海と宮地好美が私のことを忘れないでいてくれただけで幸せだった。
でも、それはもう伝えられない。ふと海先生が職員室でしていた会話を思い出した。羽田先生に話題を振られ、彼は桜が嫌いなのだと言った。その理由を私は察することができる。本当にそうであるなら、恥ずかしい気さえするが、きっとそれに違いない。
もう夏だ。今、桜の木は緑色に生い茂っていて、薄桃色ではない。
海先生は緑色の通りへ踏み出さず、立ちどまったまま言った。
「宮地。俺、あれからさ。桜が嫌いなんだよ。綺麗だなとか思ったりするのが嫌で、松里を一人で死なせてしまった自分も嫌で。忘れたくないけど、思い出したくもなくて。でも、今でももし叶うなら、松里に会いたいし、ちゃんと好きって言いたいって思う。そう思っちゃうから、結局、いつまでもこんななのかな、俺は」
すっかり背広姿が似合わないほど砕けた喋りをしている海先生が答えのない想いを吐き出し、好美はもう何も言わなかった。ふわっと暑い風が吹いて、消えていく。
伝えられないけれど、私は二人の後ろで口を開けた。
「ここにいるよ」
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