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私と彼女と彼の日々
舞台に立って緞帳が上がる瞬間の緊張感が、好きだと言った。
それを聴くたびに『ならば、緞帳を延々と開け閉めしてれば良いのではないか』と思っていた。
『演じていれば、ゆるされる』
そんなことを言った彼女は、なにを許されて居なかったのだろうか。
彼女にとって【演じる】とはなんなのだろう
荷造りをしている彼女を、彼と一緒に眺めながら考えている。
世の中、何をするにも金が要る。
芝居は身ひとつで出来るとしても、その他にはやはり金が要るらしい。
加えて、生きていくでの当たり前にかかる生きていくための、当たり前の金も人間は必要なようだ。
彼女は、金を得ることが下手なようで、気づくともやしばかりを食べるのだと周囲の人間が私に漏らした。
そのくせ私のおやつは、欠かすことはない。
「仙人になりたい」
メールボックスのメールをチェックしながら、彼女は言った。
それを聴きながら、私は生きる糧をいただく。
彼女との出会いは、彼女が芝居を学ぶ学校の生徒だったころだ。
いかにも夢に向かって未来への期待が、日々溢れかえっていた彼女はキラキラとした光を瞳に湛えていた。
会うたびに、その日の授業や講師の指導についての感想を、それはそれは楽しそうに語ってくれた。
芝居などまるで興味のない私にも十二分に伝わった。
他にも似たようなことを語る人間は、たくさん居たが彼女は群を抜いて多く訪れた。
何より、他に興味があることはないのだろうかと心配になるくらいに、芝居のことしか話さなかった。
周囲の人間は、そんな彼女のことを【芝居バカ】と認識していたようだ。
時折、彼女と共に訪れていた人間たちが、そう称していたのも聞いてたし、彼女に対してだろう愚痴を聴いてそう受け取れた。
私からしてみれば、対象は違えども他の人間らもそう変わらないように思えていた。
彼女らのクラスにいる人気者は、容姿が優れており能力も高いそうだ。
彼も彼女ほどではないものの訪れる頻度の高い人間だったので、私としても馴染みの深い人間になった。
彼は、他の人間よりも静かな上に、空気が穏やかだった。
他の人間は、うるさくて敵わないのが本音だった。
行き場所を無くした私が、彼女のもとに世話になることにしたのは自然の流れで、私を口実に彼が私と彼女の住処に来るようになったのも自然の流れだったのだろう。
私の前で、遠慮なく繰り広げられる二人の蜜月は、きっとこのまま続くのだと私だけでなく二人はもちろん、周囲の人間も思っていただろう。
学校を卒業した二人は、幾人かの仲間を集めて劇団を立ち上げた。
門外漢な私にはよく分からないのだが、芝居をするには役者だけではどうにもならないらしい。
むしろ芝居をできる環境を整えることの方こそ大変そうに見えた。
一緒に暮らしている人間のやっていることだから、私も興味があり観に行きたいと常々思っているのだが、なにぶん私のようなものは劇場に入ることが敵わないのだという。
自前で毛皮を着用し、ちょっと小柄で耳の位置が違う、異なる言語を喋る【猫】という生物なだけだというのに、同居人が夢中になっていることの成果をこの目で観れないなんて残念だ。
さて、自分の生活を維持するだけで精一杯だったろう彼女が、私の面倒まで見てて何事もなく暮らしていける訳もなく、家にいる時間が激減した。
それでも当初は私と食事をしていたのだが、だんだん私の食事を眺めているだけであることが増えていった。
そのうち、彼女から住処の鍵を預かった彼が、私の面倒を見ることが増えていき、その頃には彼の表情に翳りが見え始めていた。
そのころの彼女の顔色と言ったら、見ていられたものでなく、毛艶も悪くなる一方だった。
せめて食事だけでもさせようと、自分に用意された食事を彼女に差し出せば、私のことを病院に連れて行く始末だ。
私の主治医さえも、彼女のあまりの毛艶の悪さに気遣う様子で食べ物を渡した。
彼が彼女のことを心配して幾度か私たちの住処に訪れても、彼女はツレない態度だった。
ある日彼女が夜遅くに帰ってきて怠そうに寝床についた翌日、彼女が寝床から出てこなかった。
こんなことは、彼と共に寝床に潜り込んだ時以来では無いだろうか。
寝床の中で、スマホに向かって話しているのを盗み聞いていると、今日は休みをとるらしい
毎日忙しく動き回って、無理が祟ったのだろう。
陽がすっかり空の上に昇っても、彼女は起き上がれないようだった。
深夜と言って差し支えない時間に、彼が訪た。
その時には彼女は起き上がることもしなくなって、実は私の夕餉の世話もしていなかった。
空腹は我慢できるが、喉の渇きはつらかったので彼の訪れはありがたかった。
彼は私に食事と水を与え、彼女の寝床の脇に座り込むと沈痛な面持ちで深い息をついて、力無く座り込んだ。
結局、彼らの立ちあげた劇団は、もっと大きな団体に吸収合併さることになったと、彼と彼女の会話で知った。
同時に去った仲間が大多数いたようだ。
彼女は彼の住処に、私を連れて一緒に住むことになった。
毎夜難しい話を交わしながら、彼女らは生活していた。
気になるのは、彼らが妙によそよそしいことだった。
一緒に暮らしているにも関わらず、私が知っている限り今までで一番距離があるように見えた。
まるで、互いに意図して距離を空けているように見える。
触れ合うことを怖がっているようだ。
「お前はさ、俺と芝居ならどっちが大事なの」
ある日、彼が彼女に問いかける。
彼女は、目を丸くして彼を見つめる。
ぴんっと張り詰めた沈黙が、その場を支配する。
「じゃあ、あなたは役者じゃない私に興味持てるの」
お互いに返答はしないままだった。
彼女が身の回りの荷物を片付け始めた。
それは前の住処の時にも定期的に行われる習慣だったので、初めはさほど気にも留めなかったが、ある日とうとう私の身の回りの品まで箱に詰めはじめて、この住処から移るつもりなのだと気づいた。
「お前が連れて行って大丈夫なの」
「私の家族だもの、当たり前じゃない」
「また自分が食わないとか、やめてくれよ」
「大丈夫よ、迷惑はかけない」
「迷惑とかそんなんじゃなくて、困ったら助けを求めてくれよ。
頼むよ」
彼の言葉に、彼女の瞳が揺れる。
彼女は甘えることが下手なのだという、彼の独り言のような時折こぼされるぼやきを思い出す
彼は常日頃から、彼女の様子を注意深く観察しているように見える。
「役者としては、そういうところ頼もしいよ。
でもさ、俺ぐらいにはもっと本音を見せてほしいよ」
彼女はじっと彼の言葉を聞いている。
彼女の他者に弱みを見せまいとするところは、私とよく似ている。
けれどそれは、人間としては些か不便そうに見える。
(私でさえ、あなたたちには甘えてみせるというのに)
だから私は、一か八かで切っ掛けを作ることにした。
「様子、おかしくないか」
「え?」
彼女は彼の視線の先で床に横たわる、私を見た。
それからの彼女たちの行動は迅速だった。
まず私の主治医に連絡をして、私を運搬用の鞄に入れる。
彼が運転する車で、主治医のもとに訪れる。
主治医は人間の割に私のことをよく理解するので、きっとわかってくれるだろうと、鞄から出てすぐに顔を見つめて話しかけてみた。
主治医は無言で注意深く私をじっと見て、そっと体に触ってくる。
口の中も存分に見せる。
「仮病ですね」
人聞きが悪い。一芝居打ったと言ってくれ。
「何かこの子が嫌がることをしませんでしたか」
そうそう意図を汲んでくれ。
「念の為、詳しい検査をしてみてもいいですが、おそらく何か嫌なことがあってお芝居して辞めさせようとしたのだと思いますよ。
飼い主さんのことをよく見ている子ですから」
(そのとおり)
主治医は、人間の割に聡くて助かる。
彼女と彼が、私を見下ろしてくるのでじっと見つめて、仲直りするように伝えた。
役者である彼女と暮らしているのだから、私にだって演じることくらいわけないのだ。
私の名演技により彼女と私の移住はなくなり、彼と彼女は時折ぶつかり合いながらも仲良く暮らしている。
私はこうして快適な暮らしを守ったのだ。
結局彼女が何に許されたいのかわからないが、生きていく上で大したことではないのだろう。
(誰に許されずとも、私との暮らしを守ってくれるのならば、いつだって私は君を許すというのに不服なのだろうか)
人間というやつは、本当に愚かで目が離せない。
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