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第二章 「伊達眼鏡の理解者」
洗面台の鏡を前に、今日の眼鏡の色を選んでいた。赤は滅多なことでは使わない。最近は濃い緑のフレームが多かった。
「伊達眼鏡なんてやめればいいのに」
「あ、悪いな。すぐ退く」
後ろに弟の信陽が歯磨きをしようとやってきたから、俺は使い慣れた紺色のフレームにして、鏡の前を離れた。
「正陽。こっちがあんたの弁当ね」
「ああ」
卓袱台の上に紺色の布で包まれた方が、俺のものらしい。いつもご飯をギチギチに詰めてあるので重い。母親はたっぷり食べないとバスケ部がんばれないでしょと言うのだが、いつも残さず食べるのに一苦労だ。
「じゃあ、行ってくる」
「あいよ。いってらっしゃい」
アパートの1LDKに四人家族で暮らしている。母親はパートを掛け持ちし、父親は町工場でネジやらナットやらを作っていた。そんなだから部の遠征費を頼む訳にもいかず、新聞配達で稼いだ分を全てそっちに回している。
スマートフォンが震えたのでポケットから出して見ると、ベニだった。挨拶もなく、今日の放課後の予定を聞いてくる。
俺はいつも通り部活だと返すと、すぐに舌打ちが返ってきたが、また週末でいいと続けてメッセージが来て、最後には「ばーか」と付け足されていた。
「何が馬鹿だ」
その日の放課後。俺は体育館で、ドリブルの音を響かせていた。
バスケ部副キャプテンという重責をボールに押し付けながら、ガードの竹本をちらりと見る。
身長が伸び始めたのは小学校六年になってからだ。それまでは周囲と大差なかったのに気づけば誰もを見下ろすくらいになってしまった。
「桜庭。こっち」
「おう」
手を挙げた竹本にスナップを効かせた球を送ったが、ディフェンスに出てきた田中にカットされてしまう。
「悪い」
竹本も俺も互いにすぐ謝ったが、その声をかき消すように体育館の重いドアが開けられ、耳障りな濁声が響いた。
「おーい、ちょっと休憩しろ」
特徴的な声は顔を見るまでもない。たまにしか顔を見せない名前だけの顧問の貞森だ。分厚い唇に脂ぎった肉の断面図のような顔がいつ見ても不快だった。
「桜庭」
俺を見て、手で「来い」と指図する。
「何すか」
「ここじゃ何だから、部室、行こうか」
「はい」
体育教師の貞森は黄ばんだジャージに汗を吸い込んだシャツを張り付かせて、体育館を出たすぐにある部室に入った。俺も続いたが、貞森は一度外を確認してからドアを閉め、わざわざ鍵を掛けた。
「なあ桜庭よ。三年も抜けて実質お前が部のキャプテンだな」
「ええ。そうですね」
「オレはな、他の教師みたいにうるさく言うつもりはないんだ。ただな、ウィンターカップも負けて、これから気を引き締めてやってかなきゃって時期に、女といちゃついてるのはどうかと思うぜ」
女、という単語に俺は何の心当たりもなかった。誰かの誹謗中傷だろうか。
「いやいや、ほら、この前の祝日。駅前で、歩いてたろ」
「ああ。柊ですか。彼は何というか、そういう趣味があるだけで、普通に男友達ですよ」
同じクラスに柊紅葉という生徒がいる。何かと気が合うので一年からの付き合いだったが、女装趣味という、他人からしてみればやや奇異に映る趣味を持っているのだ。けれど誰だって他人から苦笑される趣味や嗜好の一つや二つは持っているものだ。俺だって色々言われるが伊達眼鏡を掛け続けている。
「何言ってんだお前。まさか、知らないのか?」
貞森は俺の顔を覗き込むようにしてそう言うと、口元に嫌らしい笑みを浮かべた。
「あの、何がでしょうか」
「ああ。知らないふりか。そうだろうな。そうやって男友達だってことにしておけば、とやかく言われないもんなあ」
「何が言いたい?」
先輩から何度も聞かされていた。貞森はモテる生徒をいびるんだと。だから性格の悪さは理解しているつもりだったし、これまでもなるべく付き合わないようにしてきた。
「柊とは、もうやったのか?」
耳元で、ヤニ臭い息が熱い。
「あいつ、あれでも胸あったりするのか。ああいう鼻っ柱の強い奴ほど、いい声あげて泣くんだろ?」
思わず右手を構えていた。
けれどその拳を突き出さずに俺は何も言わず、鍵を開ける。
「ああ。ひょっとして知らなかったのか? 柊紅葉はな、あいつ、戸籍上女だぞ」
思わず振り返ってしまったが、その俺の顔を見た貞森のヘドロのような笑みは、一生忘れられそうになかった。
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