1人が本棚に入れています
本棚に追加
目隠しを外すと、洞窟だった。
ひんやりとした空気、冷たく湿った地面、あたりは暗く視界も悪い。
この冷気だと、死体が腐るまで暫くかかりそうだ、と私は苦笑した。
私の生まれ育った村は小さく閉鎖的で、信仰心が強かった。
私はほんの不注意で、村で信仰している神様の祠を壊してしまった。
祟りを恐れた村人たちは、私を村から追放することにした。
帰り道がわからぬように、目隠しをしたまま縄で引っ張って、山道を歩かされた。
そうして冷たい空間に足を踏み入れ、また暫く歩くと、縄を外された。
目隠しは千を数えるまで外さぬようにと言われたので、暗闇の中、息を殺して千を数えた。
寒さで震える手で目隠しを外すと、暗闇に慣れた目でも奥までは見通せぬ洞窟にいた。
どう見ても、飲み水も食べる物もない。出口も見えない。どこから入ってきたのかもわからない。これは、このままここで朽ちていけ、ということだろう。
私は白いワンピース一枚の体を冷たい地面に横たえ、目を閉じた。このままなら、餓死するより先に凍死するかもしれない。それなら、早い方がいい。服が湿気を吸って、そのまま、全身凍ってしまえばいい。
ああでも、凍るほどの寒さはないかもしれない。洞窟内はひどく寒いが、氷柱はないし凍っている場所も見当たらない。辛さが長引くだけかもしれない。
ずる、と何かが這いずるような音がした。
一瞬で全身が総毛立ち、私は勢いよく身を起こした。蛇か、虫か。何かが、いる。
痛いほど早鐘を打つ心臓を押さえて、私は音のする方へ目を凝らした。
ずる、ずる、と土色の何かが蠢いている。泥の塊にしか見えないそれは、ぐにゃぐにゃと形を変えながら移動していた。
「ひ……っ」
さすがにおぞましくて、喉から引きつった悲鳴をあげ、わずかに後ずさる。すると、その泥の塊は動きを止めた。
緊張から息を切らせながら、その物体を凝視する。目が逸らせない。逸らした瞬間に、襲いかかってくるかもしれないと思えたからだ。
中に何か、いるのか。それは何なのか。害ある動物だったとして、今の私には何の対抗手段もない。
ああ、でも。
私は、生を、諦めたはずだ。この生き物から逃げ延びたところで、待っているのは緩やかな死だ。だったらいっそ、獣に食いちぎられても。毒にやられても。じわじわと弱っていくより、マシなのではないか。
ふっと力の抜けた私に気づいたのか、泥の塊がかすかに揺れ動いた。反射的に体をびくつかせるものの、私はその場から動かなかった。
じっと見つめ合っていると(それに目があるのかどうかはわからなかったが)、泥の塊がゆらゆらと揺れた後、少しだけ移動した。それを目で追っていると、またゆらゆらと揺れてから、少し動く。それを繰り返して、私の目が届く場所から動かず、ゆらゆらと揺れている。
何かを訴えるようなその姿に、私は思わず声をかけた。
「……ついてこいって、言ってる?」
答えるように、泥の塊は大きく波打った。
ごくりと唾を呑んで、私は立ち上がった。このままここに居ても、朽ちるだけ。なら、あの奇妙な生き物の正体を知るのも、悪くない。
私はずるずると移動する泥の塊に、慎重についていった。
「……水場だ……」
泥の塊に案内された場所は、壁の割れ目から水が湧き出ていた。おそるおそるそれを口に含めば、真水だった。なんとか飲めそうだ。
私は泥の塊に目をやった。ゆらゆらと揺れるだけのそれは、何を考えているのかもわからない。けれど、ここに連れてきてくれたということには変わりがない。
「ありがとう」
私は泥の塊にお礼を言った。すると、それはふるふると震えた。どういう反応なのだろうか。
「ねえ、聞くだけ聞きたいんだけど、食べ物がある場所ってわかる? 草とか、何かの実とか。あと、もう少し暖かい場所があると助かるんだけど」
そう尋ねると、泥の塊は考えるように動きを止めた。やはり無茶を言ってしまっただろうか、と心配していると、泥の塊はぴょんぴょんと跳ねるような動きをしたあと、素早い動きでその場からいなくなった。
「えっ!?」
急にそこからいなくなった泥の塊に、私は驚きの声を上げて、呆然と見送った。何だったのだろう。
わけがわからないが、少なくとも飲み水だけは確保できた。だからといって、この先何がどうなるわけでもないが。
私は水の流れる音を聞きながら、壁に体をもたれさせ、目を閉じた。
どれだけの時間がたったか。ずるずるという音が聞こえて、私はそちらへ目を向けた。この音は、あの泥の塊が戻ってきたのかもしれない。それにしては、少し重い音がする気がする。
見ると、泥の塊は何かを引きずっていた。近くまできたところでよく見ると、それは狐だった。
「ひえっ!?」
狐自体は狩りでとってくることもあるが、無造作にそれを引きずっていることに、思わず悲鳴が上がった。
泥の塊は、その狐の死体を、どさ、と私の目の前に置いた。
「え? えーと……」
これはおそらく、私が食べ物を希望したから、狩ってきてくれたのだろう。どうやって、とは思うものの、そもそも泥の塊が動いている理由が未だ不明である。
ここが村であれば、喜んで頂戴する。狐の肉は食べられるし、毛皮は防寒具になる。しかし、しかしだ。
今の私は身一つで、刃物を持っていないから解体できない。それに火を起こせないから、肉を食べられるようにもできない。
「……ありがとう。気持ちは嬉しいんだけど、ごめんね。今の私には、これ、食べられるようにできないの」
そう告げると、泥の塊は心なしかしゅんとしたようだった。
「あ、でも、あったかいから。今日は、使わせてもらおうかな」
取り繕うように笑ってそう言うと、泥の塊はゆらゆらと揺れた。
実際、暖が取れるのはありがたい。内臓がそのままだから、明日以降はどうなるかわからないが、少なくとも今日の内くらいはこの毛皮で少しの間温まれるだろう。
まだわずかに体温の残るそれに体を寄せると、瞼が落ちてきた。
今日はあまりに色々なことがありすぎて、疲れた。
少しだけ。少しだけ、眠ろう。
そのまま、意識は暗闇へ沈んだ。
意識が浮上して、のそりと上体を起こす。外が見えない洞窟では今の時間もわからず、どれほど眠っていたのかもわからない。周囲を見渡すと、土色の物体にびくりと肩が跳ねた。あの泥の塊だ。眠っている間、ずっと側にいたのか。
「……あなた、ここに住んでるの?」
問いかけるも、泥の塊はゆらゆらと揺れるばかりだ。言葉が通じないのがもどかしい。
「あなたが私と同じ形をしていたら、お喋りできたのにね」
どうやら言葉は理解しているようだから、発語器官があったら、会話ができただろうに。そう思ってこぼしたが、泥の塊は、考え込むように緩慢に揺れ動いた。
どうしたのかと見ていると、その揺れはだんだん大きくなり、ぐわんぐわんと波うち、どんどん広がっていった。
「え、え!?」
地面を這いずっていた泥が高さを持ち、座り込んでいた私はそれを見上げた。ぐにゃぐにゃと形を変え、それは私になった。
「……っ!?」
驚きに、言葉がでない。はくはくと息だけを漏らしていると、それは首を傾げた。
「おなじ、かたち」
夢でも見ているかのようだった。自分が、目の前にいる。そっくりそのまま同じ見た目。着ている白のワンピースも、全く同じ。
「あなた……姿を、変えられるの?」
「できた」
「そ、う。できた、の」
それは、元からできたのか、今やってみたらできたのか。詳しいことはわからないが、とにかく泥の塊は、人の形をとることができるようだった。
今考えるべきは、その原理ではない。会話ができるのならば。
「ねえ、狐を取ってきたってことは、あなた外に行けるのよね。私を外まで案内できる?」
「そとに、いきたい?」
「そう。この洞窟から、出たいの」
そう告げると、彼女はしゅんとした。
「……どうしたの?」
「いきものが、きたの、ひさしぶり。でていくの、さびしい」
さびしい。予想外の言葉に、私は目を丸くした。この泥の塊には、寂しいという感情があるのだ。だから私に親切にした。側にいてほしくて。
「……一緒に、くる?」
私の提案に、彼女は目を丸くした。
「外に行けるなら、この洞窟でしか生活できないってわけじゃないんでしょう。私と一緒にくれば、寂しくないよ」
私は彼女に手を伸ばした。この奇妙な生き物は、もう怖くはなかった。
私の命の恩人だ。何かしらの、恩返しができるのなら。
彼女はとまどったように手を見て、おそるおそるといった様子で手のひらを指で数回つついたあと、そっと重ねた。
緩く微笑んだ顔に、私は複雑な気分だった。何せ彼女の見た目は私なのだ。自分のそういった表情を客観的に見るのは、少々気恥ずかしい。
「その姿って、他の人間に変えることはできない?」
首を傾げる彼女に、私はとってつけたように理由を続けた。
「ほら、外に出るなら、他の人に会うかもしれないでしょう。全く同じ人間が二人いたら、びっくりしちゃうから。私と二人の時は、最初の形のままでもいいけど……ああでも、言葉は通じた方が楽かな」
そう言うと、彼女は少し考え込んでから、ぐにゃぐにゃと形を変えていく。
自分の姿が崩れていくのは心臓に悪い。そっと目を逸らした。
「できた」
低い声に驚いて姿を見ると、彼女は彼に変わっていた。
鋭い目つきに、短く刈り上げた髪。屈強な肉体には簡単な防具をつけていた。兵士か自警団の服装だろうか。
「な、なんで、それ?」
最初に私の姿をとったせいか、なんとなく女性体だと思っていた私は、思わず尋ねた。彼は、体に見合わない仕草で首を傾げた。
「これがいちばんじょうぶ。そとはあぶないもの、おおい」
「あ、ああ、そっか。そうよね」
何故だかほっとして、私は胸を撫で下ろした。確かに、女性体より山道も歩きやすいだろうし、獣や賊ともやりやすいだろう。女性二人で歩くより、片方が男性の方が防犯にもなる。
ふと気になって、私は今更ながら彼に自己紹介をした。
「私の名前、ミリアっていうの。あなたは、名前、ある?」
名前を聞けば、男性なのか女性なのか、目安になるかもしれない。そもそも性別の概念があるのかどうかわからないが。そう思って尋ねたが、彼は困ったように眉根を寄せた。
「ない。よばれたこと、ない」
その声が寂しそうで、私も眉を下げた。自然界では名前などつけないのかもしれないが、呼ばれたことがない、という言葉から、本当は呼ばれたいのでは、と思った。
「なら、私がつけてもいい? これから、呼べないと不便でしょう」
彼はぱっと顔を輝かせて、大きく頷いた。
「うん。それじゃ……リバー」
安直で申し訳ないが、最初に水場に案内してくれたから。そして、彼が彼なのか彼女なのかわからない以上、男女どちらの姿をとったとしても呼べる名前である必要があった。
「リバー……」
彼は噛みしめるように小さく呟いて、目尻を下げた。
それを微笑ましく見ていると、彼は大きな手を私にさしだした。
「いこう、ミリア」
私の行動を真似ているのだろう。私は立ち上がって、その手をとった。
「これからよろしくね、リバー」
ひとりではないというだけで。私は絶望など、とうに忘れていた。
最初のコメントを投稿しよう!