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 春がまた巡ってきた。風はいまだ刺すように冷たいというのに、行き交う人々の服装も、巷を流れる音楽も、ひたすら春を強調している。桜が咲くのは、まだ先だ。  私と文貴は、相変わらずねじけた関係を続けていた。飽くこともなく、あしらうこともなく、言い争い、そして想い合った。文貴は私に対して、あしらうということを決してしない。いいときも悪いときも、愚直なまでに、私に正面を向けている。  だから、私も彼に応えたい。彼が望むことはできるだけ叶えたいし、不機嫌な態度をみせるときもやり過ごしたりはしなかった。彼が嫉妬や束縛を持ち出すときには故意に意に反することをしたけれど、噴き上がるような彼の感情の一部始終をくまなく見届け受け止めた。長い放心を経ていつもの文貴に戻れば、またいくらでも優しく接することができるのだ。  炬燵にあたりながら宅配ピザを食べていると、テレビから卒業ソングが流れてきた。 「もう春だよ早いねえ」  文貴は具が落ちないよう慎重にピザを取り分けながら、 「新しい季節に、俺の新しい生活が始まるよ。楽しみでもあるけど、めんどくさいな」 「この部屋ともお別れだね、居心地よかったのにな」  私はぐるりと室内を見回した。持ち主の都合で、このアパートは取り壊しが決まっている。三月末までに、彼は馴れきったこの部屋を出なければならなかった。少し前から、私たちは住宅情報を閲覧したり、散歩の途中に不動産屋の前で足を止めたりしている。一緒に住むわけではない。けれど、彼の部屋でまったりと過ごす時間が長いので、引越は私にとっても重大な関心事だった。  引越の経験が一度もない私には、住居を選ぶということ自体がとても新鮮で楽しく感じられた。まるで自宅のことのようにあれこれと注文をつける私に、文貴は喜びを滲ませつつ呆れ声を上げた。「家賃安くて、部屋があったかくて、あとはリコがいれば、どこだって居心地いいよ」、微笑いながらそう言った。  夕方、梅村さんと交代で勤務をおえてバックヤードに戻ると、文貴からメールが来ていた。風邪を引いたので今日は欠勤して寝込んでいるという。昨日、真冬に戻ったような寒さのなかで、長い時間不動産屋めぐりをしていたのがたたったのかもしれない。風邪薬とお腹に優しそうなものを購入して、彼の部屋へ急いだ。  室内は病人が吐き出す熱い息と、布団のなかで濃縮された彼の匂いがこもってどんよりとしていた。熱が高いようで、文貴は消え入りそうに頼りなく私の名を呼んだ。 「薬飲んだ?」 「ううん、買い置きなくて」 「なにか食べたの?」 「いまなにもないんだ……。飲み物は飲んだ」  空になったミルクコーヒーの紙パックが無造作に転がっていた。 「しかたないなぁ」  とりあえず牛乳を飲ませてから解熱剤を服用させた。来たついでに、溜まっていた洗濯物とシンクの食器類を片付けた。その間、文貴は眠ったり目覚めたりを繰り返しているようで、かすかに呻く以外はなにもしゃべらずにいた。  次に目覚めたら食べてもらおうと、買ってきた卵粥のレトルトパックを湯煎していると、背中から声がかかった。一段とくぐもった彼の声が。 「それって、自分のためなの?」  ふいにかかった言葉の意味が分からず、彼を振り返る。力無くベッドへ横たわった文貴はうつろな目をしていた。熱のためだけではなく、思索の果てに見せるような厳粛さを隠していた。うつろで、それでいてひどく冷静な、疑いのこもった目。その目で私をじっと見つめ――――私の内側までも見据えて、なにかを知りたがっている。 「……どういう意味?」  訝しげに尋ねると、ぼんやりとした口調ながらも、文貴は一気に語った。 「俺がリコに優しくするのはリコに優しくしてもらいたいからで、結局は自分のためなんじゃないかって思うことがあるんだ。本当はリコを愛してるんじゃなくて、自分だけを愛してて、自分のためにリコに優しくして、見返りを期待してるだけなんじゃないかって思うことがあるんだ。だから、リコも本当はそうなんじゃないかと思って」  私は、自分のすべてが――――思考も、感情も、神経も細胞も筋肉も、なにもかもが停止したと思った。指先を動かす術も忘れるほどに、自失した。ただ、流しに寄りかかり、ベッドへ横たわる彼を視界に映しながら、そのじつなにも見てはいなかった。見ることも考えることもなにもかも忘れて、立ち尽くしていた。  鍋の湯が沸騰し、大きく跳ねて手の甲へかかり、私はようやく我に返った。まだ熱があるからか、文貴は答えない私を追究することなく、再び目を閉じた。彼に背を向けて、ぼこぼこと音を立てて沸騰する鍋を意味もなく見つめ続けた。  その、長く辿々しい言葉が、私にとってどんな意味になるのか、どれほど辛辣で、どれほど破壊力をもつのか、たぶん彼はなにも気付いていない。熱に冒された彼は、息の根が止まるような言葉の意味に少しも気付くことなく、不用意に口にして、ふたりの息の根を、いま、止めてしまった。  彼の言う「愛してる」とは、見返りを期待しているという意味だった。「愛してる」を連発し過剰な愛を示すのは、惜しみない見返りを期待する、という意味だった。それはそれで少しも構わない、私もまた彼に「同じだけの気持ち」を要求し続けているのだから。  けれど、私は自分の想いも、彼の想いも、信じていた――――信じていたのだ。  ――――愛していないかもしれないリコに惜しみない優しさを示し、惜しみない見返りを期待する。にも拘わらず、リコが示してくれる惜しみない優しさが、本当に自分のためなのか、疑わしい――――  文貴はいま、こう言ったのだ。私の心を滅茶苦茶にしたくせに、信じられないと言ったのだ。いままで彼に示した愛情と行為のすべてを、流した涙の意味と量を、無残に砕け散った自尊心を、文貴は信じていなかった。そして、信じられないくせに、惜しみない見返りを強請っている。  不思議と、涙は出なかった。頭の片隅が、こんなときは泣くものではないかと、やけに冷静に考えていた。が、私の目の奥に熱く溢れるものはない。鍋を見つめながら、口のなかでつぶやいた。それは、答える必要を失った、彼の問いかけへの返答だ。 「愛なんて、分かんないじゃん」  彼にとってはいつもの思索だったのかもしれない。けれど、等価交換は崩壊した。違う、初めからそんなものはなかったのだ。文貴を信じる私と、私を信じない文貴の間では、等価交換は成り立たない。それなら、彼に与えるものはもう、なにもない。沸騰する鍋を見つめながら、心は急速に冷めていく。引いていく。  明け方まで騒いだあとに似ている、そんなことを思いつくほど、私は落ち着いていた。空が白み始めると、盛り上がっていた気分が急に白けてしまう、あの感覚に。  百万年あとだったらいいと願った、明日の朝が訪れた。  それからまもなくだった。出勤すると梅村さんが駆け寄ってきて、由佳さんが退職したと、興奮気味に告げた。私は驚いて声を荒らげた。 「本当ですか!?」 「昨日で最後だったんだって」  昨日は休暇だったので知らなかった、というより、そんな話ならもっと前からしてくれてもいいはずだし、逆にないことが不審に思えた。彼女と少しく険悪になっていたという梅村さんは、後味の悪さからか、それとも自責の念からか、きまりが悪そうな顔をしながらも、 「マスターには少し前から話してあったらしいんだけど。教えてくれてもいいと思わない? ふたりともちょっと非常識だよね」  と、小声で非難した。私はとても信じられず、マスターへ確認せずにはいられなかった。  厨房で生クリームを泡立てるマスターの背にかけた私の声は、驚きと不審のためにいつもより尖って聞こえただろう。マスターは一瞬だけ手を止めた。そして、振り向きもせず、なんでもないことのようにただひと言、「ああ、残念だよな」と返した。  こんな辞め方をするなんて由佳さんらしくない。退勤後、言葉をよく選んだメールを彼女に送ってみた。ほどなくして送られてきた返信メールには、こう書かれていた。 〈マスター、私の気持ち知ってるみたい。なにも言わずに辞めてごめんね〉  メールの文字を見つめながら、「拒絶されたらなにもなくなっちゃう」と、怯えた彼女を思い出していた。  もしもそのとおりなら、由佳さんはすでに拒絶されていたことになる。気付かれていると知ったとたん、彼女はもう傍観者になりきれず、恋よりも大切だと言っていた穏やかな生活をみずから壊してしまったのだ。それが最上の選択なのだろうか、悔やみはしないのだろうか。あるいは、なにもなくなったその先に、彼女が望む本当に穏やかな生活があるのかもしれない。ひとりきりの静かな部屋で虚しさに沈みながら、恋心が少しずつ白んでいくのを、彼女はただひたすらに待つのだろう。  翌日、思い切ってマスターに尋ねてみた。おどけた顔つきをしてみせるのが得意なマスターが、真顔になってしばし沈黙した。のち、もうだいぶ前から由佳さんの気持ちに気付いていた、と声音を落とし、つらそうに目を細めた。  マスターの反応は誠実さに溢れていた。そして、いままでも思いやりに溢れていたのだと知った。佐々木さんへの気持ちをやたらと誇張していたのは、由佳さんに期待させないため――――とりわけ三十代の彼女に期待をもたせることを怖れたからだったのだろう。マスターは彼女をいたわっていたのだ。  きっとそれだけじゃない、マスターはおそらく自分自身をもいたわっていた。佐々木さんのことを茶化してしまいたいマスターは、由佳さんと同じ、恋をするのが怖いのだ。由佳さんは傍観者になることで、マスターは茶化してしまうことで、自分自身を護りたい。  由佳さんにはそのあとも何度かメールを送ったけれど、やがて、返事は来なくなった。彼女は私ごとマスターを切ったのだ。少なからずショックではあった、それでも、彼女の気持ちは分からなくなかった。  風が急に暖かくなり、春めいてきた。まだ先だと思っていた桜がみるみる蕾をつけ始め、まわり中がお花見だなんだと、にわかに色めき立つ。文貴の引越は、いまにも桜が咲きそうな麗らかな日和になった。  荷物も友人も少ない彼の引越作業は、誰の手も借りずにふたりだけで済ませた。新しい部屋はとても広いような気がしていたのに、ベッドと炬燵を運び入れると、前の部屋より若干狭く感じられた。おかしいなぁ、と無念そうに繰り返す文貴がおかしくて、私は何度も笑った。車の運転をする彼を初めて見て、冷蔵庫の重さに汗ばんで、荷物に足を取られてよろめいて…………ことあるごとに、余分にはしゃいでいた。ベランダに出て、見慣れない風景を眺めながら食べた昼食のサンドイッチは、いままでふたりで食べたどの食事よりも美味しかった。  そして、まだ片付けきらない部屋で、なかば荷物に埋もれながらセックスをした。やわらかな春の空気、優しい肌のぬくもり、鼻腔をかすかにくすぐる埃のにおいも心地いい。いつもと違う位置にある窓から、晴れ渡った青い空が覗いている。天井は真っ白で一点の染みもない。とても――――気持ちがよかった。目を閉じれば、痺れたような頭のなかで、桜の咲く音が聞こえた気がした。  この部屋に来ることは二度とないだろう。疲れて、そのままうたた寝をはじめた文貴。うつぶせの、美しい背中の川、その枯れた川床をそっと指先でなぞってみた。金色はもう流れない。私の恋が完成した。  後日、いつものあの公園で別れたいと告げた。春雨の降る、少し肌寒い夜だった。手短に終わらせるために、勤務後の公園を選んだ。桜はもう見頃を過ぎて、音もなく降り続ける春雨に濡れそぼち、みじめに花を散らしていた。  文貴には青天の霹靂だったろう。ひどく狼狽して取り乱した。かつての私や、前の彼女がそうだったように、女の恋には多くの場合縫い代がついていて、不用意に別れたりしない。それを知っているので、彼は私を問いつめた。  そのいじらしい姿を見ても、少しも感じなかった。心苦しくもなく、同じだけの錯乱を願ったことさえ嘘のように思えた。東屋のベンチに腰かけ、雨に煙る桜の木を眺めながら、私を説得しようと必死な彼の言葉を聞き流していた。  見頃を過ぎた桜は哀しみを誘う。まるで、別れを拒否する文貴みたい。憐れには思うけれど、食い下がり、醜い姿をさらして、私の恋を散らかしてほしくない。  話し合う気など露もない、かたくなな私に、文貴は憎しみのこもった目を向けた。 「リコ、残酷じゃない?」 「違うよ」  彼の目をまっすぐに捉えて、私は断言した。 「違うよ。これは文貴にあげる最後の優しさだよ」  文貴はこの最後の優しさの見返りに、分かったと、ひとこと言ってくれればいい。  誕生日の花束は、完全にドライフラワーになっていた。少しずつ水分を飛ばし、色褪せ、触れるとかさかさと質量のない音を立てる。あんなにきれいだったのに、形はほとんど変わっていないのに、いまはわずかな潤いすらない。これはあの花束の亡骸、私と文貴の残骸、残滓なのだ。けれど、愛の残骸なんかじゃない。それなら、なんの残骸なのか。それはただ、ふたりが共有した時間の残骸、ふたりが交わし合った感情の残滓。  心でそうつぶやきながらも、私は身体のどこか分からないところに、穴が開いたような気がしていた。小さいけれど、とても深い穴。少しだけ湿っている。それは涙なのか、体液なのか。湿ったその穴を、暖かな春風が吹き抜けていく。春風は気化熱を奪い、まるで秋風のように冷ややかに感じられた。私もまた、憐れだった。  私に穴が開いた。ここが私の入り口だ。文貴が探し続けた私の入り口。けれど、彼はもう、ノックしない。    【了】
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