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自宅の車庫に父の車の戻る音が聞こえると、母は反射的にテレビを消して腰を上げた。電気ポットの再沸騰ボタンを押し、新聞をきれいにたたみ直して、父の定位置であるソファ・セットのテーブルに置く。そして、キッチンに戻るついでに給湯器のボタンを操作して、バスタブにお湯を溜め始めた。母の作業は無言、無表情で行われる。毎日、機械的に繰り返される。私はキッチンで紅茶を淹れながら、一連の作業を冷めた気持ちで眺めていた。
やがて玄関が開き父が帰宅すると、母はやわらかめの声で「おかえりなさい」と告げる。父は母を一瞥するだけで返事をしない。母もそれが当然だと思っている。子供のころからそうだった。
父はなにもしないひとだ。母はつねに父の先をまわり、すべてのことを用意する。同時に、つねに父のあとを追い、後片付けをしてまわる。母のお膳立てと後始末を、おそらく父は意識したことすらないだろう。母は奴隷だ、長いこと私はそう思っている。
私はこの不公平な夫婦のひとり娘だ。小さな会社で役員をしている父、専業主婦の母、比較的広いといえる自宅には三人きりでペットもいない。家のなかはいつでも静かだった。
母が安穏と専業主婦をしていられるのは父のおかげだ、そんなことは分かっている。それでも、無表情で父の世話をし続ける母と、それを感知すらしない父を見ていると冷ややかな気分になった。娘の名前が示すとおりの、古めかしい夫婦。家のなかは静かなうえに、いつだってかび臭かった。
淹れたての紅茶を両手で包み、私は自室へ引き上げた。
携帯にメールが着信していた。文貴だ。
あれから、私と文貴はメールのやりとりを続けていた。毎日ではない、思い出したようにぽつり、ぽつり、と送られてくる独り言のようなメールは、なんだかとても控え目に感じた。呑み会で、端の席からあいづちばかり打っていた彼の姿そのままだ。たいていは一度きりのやりとりで、会話が長く続くことはない。たて続けに着信するたくさんのメールのなかで、彼のメールだけが流れて消えてしまわずに、逆に小さな存在感を放っているみたいだった。
今日のメールも独り言だった。
〈焼き肉食べたい……〉
相変わらずだなあ、と小さく吹き出してから、以前友人と行ったおすすめの焼き肉屋を折り返し教えてあげた。〈ありがとう〉と、ひとこと返ってきた。
ところが、何時間もたってからもう一度返信があった。
〈一緒に行ってくれない? 調べてみたけど、あの焼き肉屋に独りで行くのはちょっと……〉
初めての誘いだった。教えた店は確かにお一人様向きではなかった。が、それにしても、この間はなに――――? 携帯を片手に考え込んでしまった。
私を誘うことについて、彼はこの長い時間迷っていたのだろうか。もちろん、ただ手が空かずに返信が遅くなっただけなのかもしれない。けれど、どことなくぎこちなさを感じさせるその誘い方は、微妙な存在感をもつ彼のメールと同じように印象深く残り続けた。
待ち合わせ場所へ到着すると、文貴はすでに待っていた。午後七時の改札口、とくに目を引くところがひとつもない彼は、完全に人混みに埋もれていた。彼が先に見つけてくれたのだ。右手を軽く上げ、硬さのある笑みを浮かべて私を迎えた。作った笑みだとすぐに分かった。
こうして食事に誘うのだから、それなりに期待することがあるのだろうと思っていた。けれど、焼き肉とビールで満たされると、彼は呆気なく帰って行った。肉を焼きながらポツポツと交わした会話の内容も、私を詮索するものでも、自分をアピールするものでもなかった。彼は本当に焼き肉が食べたかっただけで、私はたんなる焼き肉のツマだったのだろうか。唖然としてしまった。
それでも、翌日からメールは前より多く送られてくるようになった。
文貴と焼き肉を食べに行ったという話を由佳さんにすると、彼女は軽く咎めるような流し目を故意にして、
「あれえ、いいの? リコちゃん彼氏いるでしょう」
「そういえば、最近あんま連絡来ないんですよ。またフェイドアウトかなぁ」
なんの感慨もない私を見て、由佳さんはなかば呆れたふうに微笑っていた。
高校生になってすぐ、初めて彼氏ができてから私にはつねに男がいる。けれど、残念なことにまだ一度もひたむきになったことがない。初めは好きだ思うのに、気持ちが長く続かない。付き合い始めて、相手が急速に盛り上がるほど、潮が引くように気持ちが冷めていく。一生懸命になれない私に落胆し、やがて相手も引いていく。付き合っている、というよりは、まだ別れていない、私の恋はいつだってそうだった。
もう誰とも付き合わなければいい、そう考えることもあるけれど、今度は違うかもしれないという思いもある。
それだけではない。つねに男がいないと自尊心を保てない、周りの女友だちと同じなのだろう。くだらない思想を侮蔑しつつ、残念ながら自分もそんな俗物のひとりだと思うと憂鬱になる。くだらない思想と、その思想に囚われている女たちの目から自由になれない私は、内面がまだ幼いのかもしれない。
すぐ後ろで、ふたりの会話を聞いていたマスターから「若い子は残酷だねぇ」と茶々が入った。
「リコちゃんにも梅村さんみたいに盲目的な恋をする日が、いつかやって来るのかねえ」
「あれは異常ですよ」
反論すると、マスターはおどけたように目を見開き、知り顔で言う。
「恋ってもんは、そもそも日常じゃないですよ!」
そのとき、店のドアがにわかに開き、女性客がひとり現れた。とたん、マスターは小さく呻いて澄まし顔を作り、不自然に背筋を伸ばす。冷たい風とともに来店した女性は、数ヶ月前から来るようになった常連客だ。歳は由佳さんと同じくらいだろう、領収証の宛名から、私たちは佐々木さんと呼んでいる。
「マスターの“非日常”が来ましたよ」
由佳さんは朗らかにそうささやき、極上の笑みを浮かべて厨房から出て行った。佐々木さんを迎える由佳さんの後ろ姿を、私は切ない気持ちで見つめていた。由佳さんは、マスターが好きなのだ。
由佳さんはこの店のオープニングスタッフだ。いまいるスタッフのなかでは一番の古株で、勤務時間も最も長い。十歳近く年上にも拘わらず、私は彼女と誰よりも親しくしている。彼女はふざけて「トシだ、トシだ」とよく嘆いてみせるけれど、とても三十代には見えない可愛らしいひとだ。この店を辞めたくないと思うのは、彼女によるところが大きいといえた。
マスターは由佳さんの気持ちに気付くことなく、週に三回は訪れる佐々木さんに熱を上げている。離婚歴があるというマスターは由佳さんよりさらに十歳近く年上で、私からすれば恋の対象にはならない存在だ。子供がいないせいか所帯染みたところがなく、その風貌は瀟洒なカフェレストランの店主に似つかわしい。
佐々木さんへの恋心は、店の全員が知っている。マスター自ら、少しも隠すことなくしゃべるからだ。佐々木さんが来店すると目に見えて上機嫌になり、彼女の好きなシフォンケーキには生クリームをたっぷりと添えて提供する。それはそれで微笑ましい。が、由佳さんの気持ちを思うと、居たたまれなくなる。
けれど、佐々木さんへのマスターの気持ちに、私は少なからず疑念を抱いていた。
「あんなにペラペラ、佐々木さんのハナシして、マスター、いったいどこまで本気なんですかねぇ」
いつだったか、そう首を傾げたら、由佳さんはこう答えた。
「茶化したいんじゃないの」
「なんでですか?」
「さあね」
と、由佳さんは肩をすくめた。
佐々木さんからオーダーを取る由佳さんを眺めつつ、冗談であってほしい、と願っていた。
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