雨の弓道場と絵の具の匂い

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雨の弓道場と絵の具の匂い

弓道場の引き戸を開けると部員はまばらで、皆帰り支度をしている。 「あれ、今日はもう終わり?」 莉玖は濡れた靴を脱ぎながら、弓道場内を見回した。 「雨で矢が飛ばないからさぁ、今日はもう解散することにしたんだ。」 近くにいた3年生の部員が荷物を担ぎながら言った。 「あ、でも桐生はもうちょっとやってくみたいだよ。」 お疲れ様ー、と言いながら部員たちが外に出ていく。お疲れ、と莉玖も返しながら道場の端を見ると、桐生が一人で弓を引いていた。鏡を前に置いて、自分の形を確認している。他の部員はジャージ姿だったが、桐生はきちんと弓道着に着替えている。 そういう奴だ。 莉玖はそっと上座に腰を下ろし、桐生の立ち姿を見つめた。いつの間にか、道場には2人だけになってしまった。外を見ると小雨になっている。 静かだ。 今月末に、3年生にとって最後の大会がある。もし勝ち進むことができれば地区大会、そして全国大会に行くことになる。 部長である桐生は、少しでも良い成績を残して後輩に引き継ぎたいと思っており、その思いは莉玖も他の部員も同じだ。 1年生の時、一緒に弓道部に入らないかと持ちかけてきたのは桐生の方だった。入学式の騒ぎ以来、2人の周りにはいつも人がいて、しかし莉玖はその環境をあまり好まなかった。疲れてしまうのだ。それを知ってか知らずか、桐生は昼休みになると莉玖を屋上に誘うようになった。黙っていても気まずいわけでもなく、莉玖にとって桐生という存在はとても心地の良いものだった。 5月に入り、部活を決めなければいけない時期。2人は身長が高いこともあり、バレー部やバスケ部からしつこく勧誘を受けていた。それを容赦なく断り、桐生は莉玖を弓道場に連れて行ったのだ。弓道など見たこともなかったが、他に希望の部活があったわけではないので、桐生と一緒に入部を決めた。 桐生に、なぜ弓道なのかと尋ねたことがある。すると、 「え、だって弓道着、カッコよくね?着てみたいじゃん。」 と、桐生は真顔で答えた。 ルックスも良く周りから憧れられる存在のこの男が、たったそれだけの理由で部活を決めたことに、莉玖は腹が痛くなるほど笑ったのを覚えている。 あれから2年たち、桐生の袴姿には見慣れているはずなのに、いつ見ても惚れ惚れする。上衣の白色は桐生の肌の白さを引き立たせ、袴の黒色は足の長さを強調している。まるで一つの芸術作品のようだ。 カッコいいから着てみたいと言っていた弓道着は、まるで桐生のためにあるかのようだ。 「体育館の呼び出し、どうだった?」 気がつくと、桐生が弓を下ろして鏡の向こうから顔を出してこちらを見ている。 「あぁ…。告白されたけど、断ってきた。」 「へぇ。意外。どういう心境の変化。」 桐生はにやりと笑うと、横を向いて弓を引いた。その状態で、鏡に映った自分の姿を確認する。 莉玖は深くため息をついた。 「告白されてるとこ、杏奈に見られたんだけど…同じこと言われたわ。」 ははっと笑いながら、桐生は弓を下ろした。 「だろうな。さすが杏奈、よくわかってる。」 「…どういう意味だよ。」 莉玖がぷくっと頬をふくらませると、桐生が弓を置いた。莉玖の前まで来ると、膝をついて顔を近づける。 「お前もようやく成長したなってことだよ。」 そう言って、両手で莉玖のふくれた頬を挟んだ。 突然のことで、莉玖は目を丸くした。プッと、口から空気がもれる。そんな莉玖を見て、桐生は目を細めながら口の端を少し上げた。 出た、この表情。 「お前のこういう可愛い顔が、女子たちにはたまんないんだろうな。」 そう言いながら、ニヤッと笑う。 可愛い? 俺が? 胃の辺りから、ざわざわと何かが上がってくるような感じ。 「近ぇわ。」 莉玖は頬を挟まれたまま、桐生を睨んだ。 その時ガラッと戸が開いて、甲高い声が道場内に響いた。 「あっ。やだ。お邪魔しちゃった?」 杏奈だった。 「あれ、今日も描きに来たの?」 桐生の問いかけには答えずに、杏奈は持ってきた荷物を置いた。画材である。ふわっと、絵の具の匂いが広がる。 「あ。どうぞ、続けて。イケメン同士が触れ合ってるのとか、題材としては興味深い。」 杏奈は手慣れた様子で、いつも愛用しているイーゼルを組み立てていく。 「勘弁しろよ。」 莉玖が桐生の手を振り払うと、桐生は無言で立ち上がった。 え、何だよ。何か言えよ。 気まずい感じになっちゃうじゃんか。 莉玖の心臓が、急に鼓動を速める。 「今日はどんな感じで?」 鏡を壁に立てかけながら、桐生が杏奈に尋ねた。 「今日はね、デッサンさせて。横から2人の立ち姿を描きたいんだけど。」 「あ、じゃあ俺、袴に着替えてくるわっ。」 莉玖はすかさず立ち上がると、弓道場を飛び出した。 「えっ、別に制服のままでも…。」 後ろから杏奈の呼び止める声が聞こえたが、無視した。 弓道部の部室がある部室棟へ向かう。雨はまだ振っているが、そんなことは気にならない。 さっきの桐生のあれ、何だよ。 莉玖は自分の頬に手を当てた。少し熱い気がする。 特に意味はないのだろう。そんなことはわかっている。 心臓が速い。胃がざわざわする。 部室棟に入ると、莉玖はトイレに駆け込み、得体の知れない物を体の外に出すかのように少し吐いた。
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