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仕事帰りにマンションの隣人の部屋の扉をノックする。隣人は老いた皺の深い笑みで迎えてくれた。
「やあ君か。そろそろ来る頃だと思っていたよ」
薬の残量まで気にかけてくれていたのだろうか。圭は感謝の念でいっぱいになった。どうぞ、と部屋で出されたハーブティーは、やはり優しい味がした。
「薬の件だね」
その薬を追加で欲しいんです、と続けて言おうとしたとき、隣人が先に言った。
「そう。人間なんて気の持ちようだよ。きょうここに来たのも、薬の方便に気がついたんだろう?」
えっ、方便? と圭は隣人と顔を見合わせた。
「あなたもあの薬で人生を変えたんでしょう?」
二人は黙ってしまった。
「話がかみ合っていないね?」
「ええ。僕は薬がないと不安で不安で。きょうここに来たのは、追加で薬をもらう為だったんです」
次の日曜日に大事なデートが控えているんです。圭がそう言うと隣人はあっさり言った。
「薬なんてないよ」
「薬がないッ? そんな! 薬がないと僕、ダメなんです!」
隣人は首を横に振った。
「ダメなワケないよ。だって渡したの、ただのラムネの小瓶だったんだから」
圭はひっくり返りそうになった。あの薬がただのラムネの小瓶ッ?
「ど、どういうことですかッ」
「そうか、君は私の言った事を鵜呑みにしてしまっていたんだね。それはすまない事をした。大根役者でも名優になれる薬って言ったね? あれはウソなんだ」
「精神薬の一種でもない?」
「そう、本当にただのラムネの小瓶」
「じゃあ瓶のラベルを剥がしたのは」
「ラムネってバレないように」
「じゃあ飲みすぎ注意の警告は」
「リアリティを持たせるためのウソ。ぜんぶ、君を自殺させないためについた咄嗟のウソ、出まかせだったんだ」
なんですって、と圭はのけ反った。
「つまり僕は、ただのラムネを、名優になれる薬だと信じ切って飲み、行動していたって事ですか」
そのようだね、と隣人は言った。
「きょうの君の来訪は、てっきり薬の方便の指摘だと思っていたんだ。そうかそうか、だったらウソをついて悪かった。でも悪いようにはならならかっただろう?」
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