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地上八階。投身自殺には十分すぎる高さの自宅のベランダから片足を出したとき、田中圭は初老の隣人に呼び止められた。
「ちょっと待った。まさかとは思うがそのまま、身投げを考えているんじゃあるまいね」
見てしまった、という顔をする隣人に、見られてしまった、という顔をする圭。
ベランダごしにマンションの隣人にみつかってしまった。
隣人にそのとおり、今まさに身を投げるところだったんですと返事するわけにもいかず、圭は無言でもう片足を枠の外に出した。
「ちょちょちょ、ちょっと待った。見てしまったからには止めざるをえない。どうだろう、私の部屋に来ないか。どうせ死ぬなら、事情くらい話したっていいだろう」
隣人はガウンに身を包んだ初老の男だった。彼にそう言われ、そうかもしれないと圭は思った。どうせ死ぬなら愚痴のひとつやふたつ、彼に聞いてもらうのもいいかもしれない。圭はベランダに掛けていた両足を引っ込めて、隣人の部屋に通してもらった。
隣人はさっぱりと小ぎれいな部屋に住んでいた。圭は淹れてもらった、優しい味のハーブティーと借りたブランケットで体を温めながら順を追って話し始めた。
「なに、一生懸命に尽くした会社で平に降格になった? そのうえ結婚を誓った彼女を寝取られた? 生まれたときから不運続き、そんな根暗の自分が陰でコツコツ頑張ってきた結果がこれでは、今後真面目に生きるには失った希望が大きすぎるだって?」
そうでしょう、と圭。「もう生きていたってしょうがないんです」
「だからと言って自殺も早計だろうに」と隣人。しばらくなにか考えたふうに顎に手を当てるとこう言った。
「君には自殺を選ぶくらいの根性がある。なら、ダメもとで人生を変えてみないか」
「人生を変える?」
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