箱 ――花盗人――

1/7
34人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 書生は青ざめた。  ――箱がない。主の秘蔵の細工箱が――  狼狽も露わなまま、書生は完璧にまとめ上げた主の荷を(ほど)きにかかる。  大学教授を務める主は、明日から十日間、講演の旅へ出立する。  見目好く如才なき明晰な書生と重宝されて、はや三年。  ここまで築いた信頼に翳が差そうなど、些かたりとも矜持が許さない。  一度は詰めた筈の小さな箱を求め、書生は主の旅行鞄を隅々まで(さら)い尽くす。  箱の中身を書生は知らない。  行旅の折には肌身離さず持ち歩く物なのだから、余程の秘宝と偲ばれる。  だが善い(しもべ)は、主の私事など詮索しないものだ。  書生は思考の手綱を解き放ち、ただ無心に小箱を探す。  しかし捜せど捜せど細工箱は見つからず、時だけが刻々と過ぎり去る。  焦りが絶望に代わりかけ、書生は主の乱れた荷物の前で、途方に暮れる。   ――主の叱責と失望、いやそれよりも強い自負が、粗相を赦さない――  重く湿って濁った吐息が夜半の玄関に澱んだ刹那、書生の背後に陽炎が揺らめいた。  振り返るより早く、書生の鼻孔を撫でたのは、淡く甘い匂い。  大輪の洋芍が開いたかのような香気に()てられ、書生の官能が激しくざわめく。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!