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『いい夢あります』
黒いマジックで乱雑に書かれた画用紙が、初夏の宵の風を受けて今にも飛んでいきそうにはためいている
まだほの明るい夕空の下、公民館で見かけるような机の上にどこかの海岸で拾ってきただけのような貝殻を無造作に並べて、ニット帽をかぶったおじいさんが背中を丸めて座っていた。
思わず足を止めたのは、この頃、毎晩見る悪夢のせいだ。目が覚めると、どんな夢だったのかははっきり思い出せない。けれど、何かと戦っていたり、逃げていたりするようなそんな疲れ方をしている。別にストレスを抱えているわけでもない。季節の変わり目はいつもそうなのだ。
「これ、売ってるんですか?」
「正確に言うと売り物じゃあないね、お金をもらうわけじゃないからね」
その意味をつかみかねていると、おじいさんはもう一度にやりと笑った。
「お客さんの夢と交換にそれをあげるんだよ」
「交換?」
「いい夢がそろってるよ、ひとつ持っていくかい?」
「私、悪夢ばかり見るんです」
「そんな人にはちょうどいい。うんといい夢を見られるよ」
「いい夢が見られるようになるんですか?」
いけない薬なのではないかと背筋がぞわりとした。
「そう、この貝殻に耳を当てて寝ると、いい夢が見られるんだ。反対に、お嬢さんの見た夢は全部この貝殻が吸い取ってくれる」
「その夢はどうなるんですか?」
「悪い夢ほど高くで売れるんだ。悪い夢を欲しがってる人もいるんだよ」
「まさか」
「本当さ、人のうらやむ幸運を手に入れてしまった人の中には、せめて夢の中でつらい思いでもしないと心が落ち着かないという人たちがいるんだ」
「へえ……」
それが嘘か本当かはその淡々とした口調からは判断が付かなかった。
「じゃあ……ここにあるいい夢はどうやって集めてくるんですか?」
「お嬢さんの見る夢の中にも、気が付いていないだけでいい夢はたくさんある。それに……」
頭の上の街灯が前触れもなくともった。頭上からの薄明かりに照らされておじいさんの影が不気味に伸びる。
「いい夢ばかり見る人たちからちょいと失敬してくることもある」
「ふうん……」
失敬する、という意味が分からなくて生返事をすると、おじいさんは前かがみになって声をひそめた。
「この貝殻は寝ている間に耳に当てるだけで夢を吸い取れるんだよ」
知らない間に貝殻を押し当てられているところを想像すると、また背中がうすら寒くなった。
「大丈夫、夢を失敬する相手は決まっているんだ。鍵を何重にもかけて安全なつもりになっている気のいい奴らばかりだよ」
「鍵がかかっているところに入っていくんですか?」
「そうさ。みんな知らないだけで、鍵はかければかけるほど、スキだらけになるんだ」
おじいさんの影までが笑ったような気がした。
「だけど、そんなにして夢を集めてどうするんですか? そんなにみんな買っていくの?」
「売れ残った夢は、海にばらまいておくんだ。それを拾った人たちは、その夜いい夢が見られる」
「拾われなかったら?」
「夢はいつまでも貝殻の中で眠っている。いつか、誰かのもとにとどくのさ」
電球の切れかけた街灯が、ぱちぱちと瞬いた。揺れる明かりの中でおじいさんは、時間を超えたもののように見えた。
「さあ、今夜はもうそろそろ店じまいだ。お嬢さん、特別にとっておきの夢をあげよう」
おじいさんは、机の下から、薄桃色の巻貝をとりだした。
「大事にしておくれ」
ためらいながらも受け取ると、見た目よりもはるかにずっしりとしている。中には見せない夢がぎっしりと詰まっているのだろうか……その夢には重みがあるのだろうか……
「そこに詰まった夢が全部終わったら、またここへおいで。新しいものと取り換えてやろう」
そう言うと、おじいさんは貝殻をひとつずつ木箱の中に片づけ始めた。
巻貝を手にしたまま、私はあわてて尋ねた
「ねえ、おじいさん」
「なんだい」
「おじいさんはいったい何者なの?」
おじいさんが目をあげたとき、街灯の明かりが、消えて、ふっとあたりが暗くなった。
「私は、夢泥棒さ」
夕闇の中、おじいさんの声が聞こえる。
明かりが戻ったときには、もうそこには夢泥棒は姿も形もなく手の中の巻貝がひんやりと感じられるばかりだった。
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