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「倉科さん、聞いてますか?」
はっとした。見ると、金澤が怪訝な顔で倉科の顔を覗き込んでいる。今の自分は医事課の外来リーダーで、軽率な部下たちを叱り飛ばしたばかりだった。
それを、思い出した。
「覗くなんて、絶対ダメだからね」
倉科は言った。だがよほど好きな俳優なのか、金澤は「たとえば病室の前でたまたま出くわす形なら、問題ないですか」と聞いてきたので、「問題あるよっ」と怒鳴った。
すごすごと、彼女は去っていった。
十八時を過ぎた頃、会議のため支社へ出向いていた統括リーダーの辻原が、病院に帰ってきた。
「あれ辻原さん、今日は直帰かと思ってたけど」
「お疲れさま。ちょっとまとめておきたい資料があってね」
そう言って、デスクにどんっと書類を置いた。
タイミングを見計らっているうち、病院職員も、委託スタッフたちも、少しずつ帰っていく。
辻原に「帰れないの?」と聞かれたので、「もう帰ろうかな」と答えた。レセプトのチェックも、委員会の資料作りも、ちょうどキリが良い。
「東二病棟の患者、聞いてます?」
「ああ、有名な俳優なんでしょ」
「今日さ、大変だったの。金澤さんとか、湯島さんとか。どうしても見に行きたいって騒いじゃってさ」
倉科が愚痴ると、辻原は笑った。
「笑いごとじゃないですよ、あの様子じゃ、ホントに行きかねなかったんだから」
「ごめんごめん、だってさ、あまりにも」
「辻原さんがいないと、締まらないんだよな、やっぱ」
「何言ってんの。倉科さんがいるから、私は安心して出かけられるんだよ」
辻原はまた笑った。
大人になって、社会人になって、もう長い時間が経つ。
こうやって職場で上司と話していると、自分がすっかり年を取ったことを、イヤでも実感するものだ。学生時代にあんなに上に見えた大坪部長たちだって、たった二つしか年は変わらなかったんだし、当時の清水先生は今の自分より年下なんだって思うと、何だか不思議だ。
あの頃はもう、遠い昔なのだ。
それでも、自分たちは確かに、みんなが「花の時」を生きた。
もしも、また松宮と会うことがあったなら、倉科には、今度こそ伝えたいことがあった。学生時代の、幼くて、密かな夢想である。
先輩―― お願いがあるんだ。
次の公演では、キャストにはなくても、先輩には中宮定子を演じてほしい。そしたら私は恥も外聞もなく清少納言を名乗り出て、定子の薄紅梅色の指先を、宝石のように見つめるの。
その後で、許されるなら、あなたの小さな肩を、抱きたい。
もしも、もう一度会えたら。
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